『太平記』には, 戰場で先を爭って武勇を競った結果, 死に方もそれぞれの立場と境遇によって細分化していく現象が描かれている. 卽ち集團戰での一般死だけでなく, 誰よりも先驅けて一番乘りで戰おうと驅け出して死んでいく先陳攻擊死, 味方の軍勢は敗走する中で, 適に後ろを見せるのを恥と思い, 敵に一人で走りかかり, 死を遂げていく單獨反擊死, つい敵の戰術に卷き입まれて, 碌に戰いもできずに軍勢を一時に多量失ってしまう壞滅的な死, そして敗北を迎えてからは武將と侍たちの自害が行われる. その時, 彼らは最大限潔く自害することによって戰慄を感じさせ, 一瞬それは敗北の姿でないような錯覺を呼び起こすのである. 彼らの戰いぶりには死も怖がらないような鎌倉武士の精神と姿がそっくり顯れているのであり, その背景には戰果によって所領を占めるようになる武家封建制の影響も窺われる. 問題としては, 壞滅的な死と武將の自害の樣相に類型的な特徵が窺われるといぅことである. 壞滅的な死の場合は, 北條軍團の連續的な壞滅の敍述で構成されており, 宮方の軍勢が壞滅されるような記事は記されていない. また武將の自害の樣相においては, 宮方の怨みと敵討ちの精神が大いに浮き彫りされている反面, 北條軍團の方は, 感動的な主從間の情誼と忠烈武勇談が主な內容となっている. このような類型的な特徵には, 敍述者の構成意圖が窺われる. 卽ち宮方の立役者たちは, 彼らの最後の意志通り,『太平記』の第三部に記される怨靈談に再登場し, 足利武家の內亂を畵策, 主導する役割を擔當していく. これに對し, 北條軍團の武將たちは政治的な怨恨からの怨靈談には登場していない. これには新しく權力を握って, 軍雄割據する武士階級に皇統の怨靈の怖さを認識させようとする意圖が窺える. このような背景で, 最後の時に念佛を唱える武士より, 逆修信仰の武士が稱えられており, 非欣求淨土的な死, すなわち主君の天皇に最後の一念を捧げて, 怨靈になってまで敵を滅したいという宮方の執念深い死が絶讚されている. 反面, 官方に滅ぼされた北條氏は『太平記』の構想段階から朝敵と位置付けられ, 怨靈史觀の對象からもはずされたことであり, その死は, 武家武士道精神に徹底した姿だけで美化し, それで鎭魂しようとしたのではないかと判斷される.