前國立國語硏究所長の野元菊雄は, 在職當時, 外國人のための日本語敎育事業の一環としていわゆる「簡約日本語」を創ることとし, その作業に着手した. 國際共通語としての日本語を世界に廣く普及させるためには日本語の難しいところを取り除き, エッセンスだけを敎える必要があるという趣旨のもとで提案されたのが, この「簡約日本語」である. しかし, この「簡約日本語」にはいわゆる對者敬語の取り扱いと關連して問題と思われるところがあり, 本稿はその点を取り上げてみたのであるが, その要旨を簡單にまとめてみると, 次のとおりである. まず「簡約日本語」では形容詞文の過去丁寧體として「Aいでした」の形を採用しているが, これはもう一つの過去形つまり「Aったです」の形と比較して, どちらがもっと一般的表現であるかを考えてみる必要がある. 兩者を比ぺてみると, 「Aったです」の方が壓倒的に多く使われ, その使用度は「Aいでした」と比べものにもならないほどである. にもかかわらず,「簡約日本語」で「Aいでした」の形が採用されている主な理由は, この形の方が形容動詞文「Naでした」ゃ動詞文「Vました」などと平行的で均整が取れ, 覺えやすいからだということである. しかし,ただ覺えやすいからということで, 言語事實の慣用を人爲的に變えて不自然な表現を覺えさせるのは, いくら「簡約日本語」でも問題と言わざるを得ない. 次の問題点は, 動詞の活用を敎えないで, 動詞に「ます」を付けて「ます」の活用だけを敎えることにより,「Vますなら」「ますれば」「Vます時」「Vますと」「Vませんと」などのような不自然な表現が現われる, ということである. これらの表現も使われないことはないが, やはり一般的な表現とは認めがたい. このように,「簡約日本語」での對者敬語の使い方は實際の言語生活からだいぶ離れている. 日本語を世界に廣く普及させるためには日本語の難しいところを取り除き, エッセンスだけを敎える必要があるという趣旨はいいが, だからといって, 實際の言語生活を無視し, ただ覺えやすいからという理由だけで言語事實に人爲的な修正を加えてはいけない. したがって, 「簡約日本語」は現代日本語の語法や言語生活の範圍內で簡略化されるように硏究されなければならないであろう.