ロンドン體驗のもっとも顯箸な結實といえる『文學論』の序に, 漱石は「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり. 余は英國神士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く, あはれなく生活を營みなり」とロンドン生活が不愉快な嫌岳すべき日日であったことを表白している. 1900年代の英國と日本との關係からみれば, 大きな落差があったのである. 近代化が遲れ, ひたすらは西歐化をすすめる過程をたどってはいたが, 故國での後盡性は否定すべくもなかった. 漱石は先進文化に驚異を覺えるとともに, わが身のコンプレックスを感じないわけにはいかなかった. 三四郎が東京生活で感じた喪失感にはおそらく, イギリス留學中の漱石の思いが投影されている三四郎は傳統的な田舍の世界もいやだが, そうかと言って, ハイカラな洋風化された世界にもすんなりとはいっていけない. 文明開化の象徵である미녜자子に强く引かれながらも, 彼は, 彼女の性格や, 彼女のつかっている環境にはいっていけない. 미녜자と三四郞, 都會人と地方人と生い育った環境の相違は, 當然この靑春の迷蒙の受けとめ方も, 對應の仕方の上に表われている. 미녜자の能動的な, 局面の對應の速さは, 自己への開眼とともに三四郎からの訣別に及んでいる 三四郎にみられる生硬さは, 「半間」の自覺となって自己への 逡巡と躊躇とがつきまとっている. 미녜자のような鮮やかな轉身を遂げることはむずかしいのである. ロンドンにあった極東の留學生としての色んな生活感情が, 三四郎の心情や行動に反映している. 小說の結未部分の「森の女」の前で,「迷羊, 迷羊」と繰り返えす三四郎は, ロンドンの霧の日日に, 行くべき道を失い, あてどなくさまよう漱石の自畵像に外ならない. 明治40年,「私の頭は半分西洋で, 半分は日本だ」と漱石が語っているように,『三四郞』には, 歸國して眺めた明治の文明開化に對する漱石の暗鬱な思いが書きこめられているのである.