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다자이 오사무 (太宰治)의 「 혹떼기 (瘤取リ) 」 론 - 번안소설에 관한 연구
A Study on Dazai Osamus " Kobu-tori "
어흥선(Heung Sun Eu)
일어일문학연구 28권 211-234(24pages)
UCI I410-ECN-0102-2009-730-006474458

太宰治の「瘤取リ」は「伽草紙」(1945.5.10.筑摩書房)に收められた作品である,「瘤取り」の話は, 太宰が作中で觸れているように『宇治拾遺物語」の中に「鬼に瘤とらるる事」の說話がある.『宇治拾遺物語」(以下『說話』と略す)は, 最後の「ものうらやみはせまじき事なりとか」という敎訓から, $quot;瘤を取つてもらつた爺さんが隣の爺さんを羨んだ報いとしての惡い結果, という因果應報性が極めて强い$quot; とか, $quot;善人惡人についての結果話$quot; であるものとして知られている. よく, お伽話といえば,「因果應報」の物語というイメ-ジになりがちである. しかし,『說話』の結未が「ものうらやみはせまじき事なりとか」というぶうになつているからといつて, 必ずしも$quot;因果應報$quot;の物語といえるだろうか.「瘤取り」物語は元元この『說話』の話を利用しながら, 太宰獨自の解釋を興えた. 太宰が 『宇治拾遺物語』性質をどのように活用して, どのような「別個の物語」をかもしだしたか, を調べてみることがこの論文の目的である.『字治拾遺物語」では, 二人のお爺さんが生まれつきの `才能` の問題が現れているのである. そこには, 物羨やみの因果應報的要素はややあるとしても, 欲の問題ではなく, 二人の爺さんを`才能`の有無によつて幸不幸が分けうれてしまうのである. それに對して, 太宰はそれぞれの人の `性格` が生んだ「喜悲劇」という問題を提示しているのである. 太宰が用いている意味は, 所謂感情的傾向とか特殊な心理的性質などという類の「性格」ではなく, 人間存在を規定している宿命的な業にも似た, 不可避な生きざまとしての `性格` である. 太宰の「瘤取り」には『說話』が持つ性質, つまり善惡をめぐる因果應報ではないという点が, 巧みに生かされているのである. それは, 關係の中で無意識に人を傷つけたり, 傷つけられたりする情況に對して `性格の喜悲劇` というまため方をしたのである. 性格自體を特別注目しているのではない. `性格の喜悲劇` というまとめ方の裏面には一人一人は惡くないし, また, その家庭も惡くないが, それが人間と人間との `關係` の中に入ると悲劇になるということである. お伽話を利用して, それによりかかる形で, 切り返すいうやり方ができたのは, 飜案という在り方を除いてはは考えられないのではないか.

[자료제공 : 네이버학술정보]
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