本考の目的は$lt;批評(ジャンルとしての批評ではない思想·意識の秩序化の機制としての批評)の時代$gt;と言える明治20年代の北村透谷の評論が, 今なお連續して特っていると思われる意義を吟味することにある. つまり, 彼の思想が日本の$lt;近代性と主體の形成$gt;及び$lt;近代精神の秩序化$gt;にどういうふうに作用し, どのような問題意識をなげかけているかを究明することにある. その結果として, 彼の評論の中で一貫して追求されている「我」「精神の自由」「一國を形成する固有の思想」などが封建主義に對する新しい時代的要求としての$lt;主體(subject)$gt;の形成についての先驅者的認識であることが明らかになったのであるが, 特に注目すべきなのは, そこでなされた西歐規範の支配に對する$lt;自律する主體$gt;の形成への要求が現在の日本の$lt;主體$gt;の實在のついての問いかけにつながっていると思われる点である. 北村透谷の問題意識から百年, 彼の$lt;自律する主體$gt;の要求についての百年間の成熟は何であろうか.