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KCI 후보
문학,일본학 : 『비탄니리원사거작가』고
Literature,Japanology : A study on the elegy for nun Rigan from Silla
재등마자 ( Saito, Asako )
UCI I410-ECN-0102-2009-730-002395405

万葉第3期を代表する女流歌人大伴坂上郞女は多くの相聞歌を詠んでいるが、挽歌は唯一新羅からの尼理願の死を悲しんで詠んだ長歌·反歌 (卷三·460·461) があるのみである。この歌は左註によれば、母石川命婦の許に送り屆けだ書簡文であったことがわかる。冒頭では母と娘にとっては旣知のことであるにも拘わらず、尼理願が新羅から來朝し、大伴家に寄宿するに至った事情が詳細に述べれていて、構成としてこれまでの挽歌の方法を踏襲したと言える。 しかし、當時の律令體制のもとでは尼が在宅していることは稀ことであった。新羅の尼理願が大伴邸に寄宿した背景にとしては、白鳳時代の新羅佛敎への傾倒や、父大伴安麻呂がその受け人れ口であった太宰元帥であったことと共に、日本における最初の尼が大伴氏から出ているという大伴氏と佛敎との深い係わりなどかあると考えられる。 この長歌と反歌に繰り返し詠まれている「生ける者死ぬといふことに免れぬものにしあれば」や「留めえぬ命にしあれば」は佛敎的表現でおり、異母兄の大伴旅人との歌との類似が見られる。しかし、命が「免れぬ」「留めえぬ」ものとして とらえられている例はこの歌を除いては万葉中類がない。このことは坂上郞女が十代半ばから體驗したの多くの 代別をこの歌に投影することにより、れまでにはない命ら表現がとられたものと考えられる。 なお、「敷拷め家」とは枕や床の枕詞で共寢を意味する「敷拷」が「家」の前に置かれたものであるが、これもまた獨自の用法である。ここにも枕詞「敷拷」の相聞性と家とを結びつけることにより、幼い頃から共に暮らしてきた理願への親密な想いを表出しようとした創作意識が窺われる。このようにして大伴坂上は自己の悲しい體驗を通じ、獨創的な文藝を生み出していった。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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