18.218.169.50
18.218.169.50
close menu
KCI 후보
문학,일본어 : 나쓰메 소세키의 『문』론 - 소스케(宗助)의 불안 -
Literature,Japanology : A study of Natume Souseki`s Mon
윤은경 ( Yun Eun Gyeong )
UCI I410-ECN-0102-2009-730-002395354

『門』という作品を考察するにあたって、宗助夫婦のドラマティックな過去が彼らの現在にどう關わってくるかということが問題になる。 谷崎潤一郞をはじめとして從來の多くの硏究者は、宗助とお米が一括りされ一體感を持った存在として描かれているところに注目し、理想の夫婦を描いた小說として『門』を讀み取ろうとしている。しかし、そういった見解には從えない。「一つの有機體」「運命共同體」といった設定のもとで漱石が冒頭かから注意深く描き出している宗助の盡きない不安に注目されるからである。 テキストの表層によれば、宗助の不安の原因は安井に起因する。しかし、「安井への罪-罪の意識からくる絶えざる不安としう罰」(小宮豊降)といった圖式は、『門』の說明には充分ではないと思われる。 本稿では、まず小說の現時点、宗助が自ら疑っている「神經衰弱」の內實について考えてみた。「神經衰弱」は亡夫の財産について處分の經過を問い正さねばならない瞬間に宗を躊躇せしめ、小六の學費の件に對しても「神經衰弱」だから仕方がないと言わせる。自分の異常を自覺しながらもそれに身をまかせ、一向そこから拔け出そうとしていない宗助の在り方をさぐっていけば、「過去」と呼ばれる時間をきっかけに變り果てたことがわかる。ところが、現在の自己と自己を決定した過去を思い、宗助はなぜ「運命」という言葉を想起するのか。宗助は「運命」という言葉とともになぜ「恐ろしさ」や「不思議」、「不愉快」といった感覺を連想するのか。こういった疑問を手がかりとして現在彼が認識している過去の事件やそれに起因する漠たる彼の不安の實體をさぐってみた。 「成らうことなら、自分丈は陰氣な暗い師走の中に、一人殘つていたい」と思う宗助の「ぼんやりした掛念」、彼が抱く漠たる不安は、逃れることの出來ない內に菓食うものであり、樣??な姿として現れるものである。參禪は「自分とは何者」かを取り태し、自分を圍んでいる不安から逃れる方法を得るための「試み」であったが、宗助に何一つ片付けた解決は提示されていない。むしろ、「自力」としてはどうしようもできない存在は「運命」「偶然」、「時」の流れだけでなく、樣??なかたちで現れるということがさらにあきらかになだけであった。それに、いくら「運命共同體」に結ばれている夫婦だとしても「自己」に包含できない他者との近づけない距離もこの小說は物語っていると思われる。

[자료제공 : 네이버학술정보]
×