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KCI 후보
『이상산부』의 창작동기
Literature,Japanology : The creation motive of Hutakamiyamahu
박상현 ( Park Sang Hyeon )
UCI I410-ECN-0102-2009-730-002395036

天平十八年(七四六)三月に宮內少輔となったばかりの大伴家持は、それから間もない同年六月二一日、越中國守に任命された。家持にとっては最初の地方官轉出である。そして、結果的に約五年間越中で生活するようになるが、いわゆる家持の越中時代と稱されるのがの時期である。 越中へ赴任は左遷ではなかったものの、喜ばしいことではなかったであろう。妻子を京に殘して、奈良から遠く離れた僻地へ行かなければならなかったからである。また、越中の風土が奈良にとは相當異なったからである。こうしち越中の風土にする家持の不滿は、万葉集に殘されている。それで、先行硏究者は家持か越中時代にいつも望鄕の念をいだいて、越中での生活には積極的ではなかったと指摘してきた。家持の越中時代に對するこのような見方は、一見妥當のように見える。しかしながら、越中全時期において家持は越中で生活に後向きだったのであろうか。 本稿では「二上山賦」((17)三九八五~八七)の創作動氣を明らかにして、次のような結論にたどりついた。 越中赴任早??、書持の死とともに、重病も體驗し、意氣銷沈していた家持は、池主との文藝的交流(天平十九年<七四七>이월二九日から三月五日にかけて行なわれた)や立夏の到來によって、一つの轉機を迎えたと考えられる。そして、なかなかなじみにくかったはずの越中(=「天離る鄙」)での生活に以前よりは前向きになったと推測される。そして、それによって發見されたのが、以前には本格的に創作の對象にはなれなかった越中の風土である。すなわ、二上山だったのではないか。そして、家持は精的支柱だる二上山を讚美する作品、「二上山賦」を制作した。その意味で、、「二上山賦」は家持が越中での生活にようやく適應するようになったことを宣言しているような作品だったのではないか、と考えられる。したがって、越中全時期にわたって、越中での生活に家持は後向きだったという通說には從いがたい。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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