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KCI 후보
『야수』의 구조
Literature,Japanology : A Structure of NOMORI
임찬수 ( Im Chan Su )
UCI I410-ECN-0102-2009-730-002395016

「野守」は野守の鏡という和歌說話を題材にして作られた世阿の晩年の作品である。內容は野守の鏡にまつわる故事が背景になって、野中の溜り水という說と人の心を映す鏡という二つの解釋が展開されている。もとは野中の溜り水を指した詞であろうが、それが人の心を映すとか身體の病の在所を示すという說話に變形發展して傳承されてきたと思われる。歌論書には『俊賴髓腦』をはじめ、『色葉和難集』まで、その說の由來が敍述されているし、中世の日本紀注に載っている神種三器の鏡に關する說話まで引用したりする。特に『紀語抄』に「日本紀に委はあり」とか『色葉和難集』に「口決云く」という文句は、中世の日本紀注を暗示する表現である。それは、野守の鏡の說話が和歌世界だけでなく、すでに散文文學にも廣く傳承されてきたことを示す證據である。和歌には、野守の鏡を野中の溜り水という意味よりも人の心を映すというものに受けとる傾向が强い。 本曲には「碎動風」という鬼神の演技が披露されている。世阿彌の能樂論によると、鬼神演技には「碎動風」と「力動風」とが存在するが、彼の流派には「碎動風」しか演じていないと斷言した。「碎動風」とは、形は鬼神であるが、人間の心を持つ鬼神演技を指すもので、幽玄という美意識と關連づけて考えるべきものであろう。優艶でありながら姿を幽玄と考えた世阿彌は、力あって荒っぽい動作の鬼神演技、つまり「力動風」の演技は、彼が追求した美意識に似合わなかったかも知れない。鬼神でありながら人間の心情を持つ鬼神演技は、優しくて美しく見せながらも鬼神であることを觀客にわかってもらうように演じるテクニック、これが「碎動風」の本質であるし、世阿彌が主張する美意識の發露でもあろう。 本曲の最後に鬼神が봉から鏡を持って來て、天上と地下世界を悉く見せ、「さてこて鬼神に、橫道を正す、明鏡の寶なれ」といいながら落に歸る部分は、鬼神と鏡を一體とする觀点からの表現であるといえよう。この文章は、鬼神は橫道を正す鏡だと解釋できる。言い換えれば、鬼神=鏡という圖式が立てる。日本紀注には、野守の鏡は人間の罪業と映す淨파리の鏡として描かれていて、この鏡は閻魔法王が所持しているものとして、地獄の有り樣を외無く映し、人間の罪や業障、そして善惡は勿論、人間の過去と未來も眞ん丸映すものとなっている。日本紀と關連づけて考えると、鬼神=鏡、閻魔法王=淨파리の鏡、鏡=閻魔法王となる圖式が立てられる謠曲の構造である。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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