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KCI 등재
일본문학,일본학 : 경극파가의 표현 -위겸가를 중심으로-
Japanese Literature,Japanology : An expression of KYOGOKU TAMEKANE`s WAKA
박혜성 ( Park Hye Seong )
UCI I410-ECN-0102-2009-730-002396331

京極爲兼(きょうごくためかね)は京極派歌人グル-プの理論的指導者である。伏見院の擁護を受けて鎌倉南北朝期におけるめまぐるしい政治狀況の中で、歌人として政治家として波瀾万丈な生を送った。本稿では爲兼の歌論及び實作からその目指そうとした歌の世界を考察してみる。 爲兼に關する先行論文はかなり多い。これらの論文は主に爲兼の傳記硏究から始まり、歌論書の問題を多く取り上げている。本稿ではこのような先行論文をふまえて、爲兼の實作を考察し、彼の目指した和歌論及び和歌の世界をたどってみることにする。まず、和歌の考察に先立って、京極派歌人の和歌の基本精神であった『爲兼卿和歌抄』から實作分析の手がかりになる部分を檢討してみたい。その結果、この歌論に一貫して流れているのは「心」の問題であり詞で飾るだけの「心」の伴わない詠法が一番惡いと考えているのがよく見て取れた。 次に爲兼が實作においてこの「心」の歌論をどう具現していたか、彼の和歌および、彼の撰進した『玉葉和歌集』の例から考察してみることにする。爲兼のめざす歌論の據り所は「心」の問題であり、その心の歌論を先に完成させ、後に實作をそれに近づけていくという歌論史上には稀な詠作課程をたどっている。 爲兼の編纂した『玉葉集』は二條派の歌人の立場から書かれたて『歌苑連署異書』で多く非難を浴び、爲兼自身の歌も難が付けられた。それは爲兼の歌が傳統的な和歌から離れて斬新な施しているのである。 『風雅集』に入集されている爲兼の歌は實景を眼にして時間とともに移りゆく景色を見事に捉えた歌が多い。また、爲兼の歌の表現においては上句と下句の間に一瞬の休止を置き、遠近感または對比の效果をもたらす三句切れ「~て」の表現が目立つ。二條派からの多くの批判はあるが、敍景歌においては「心」の問題を據り所に天象語及び雙貫句法、時間的推移をうまく表した多くの秀歌がある。 しかし、戀歌においては心理分析をしすぎたために實感のこもっていない說明的な歌になってしまっているものが多い。これは「戀の歌をばひきかつさて、人の心にかはりても、なくなくその心を思やりてよみけるとぞ」という歌論の實現がうまくいかなかったためではなかろうか。つまり、實生活に戀の感情を味わうことのなかった爲兼がその心になりかえっても結局は實感のとぼしい僞りの感情としかなり得なかったということである。故に、戀歌においてはなおさら「心理分析的歌」すなわち實感のこもっていない理屈っぽい歌が多く見られた。 いずれにしても京極派歌論の根底をなしている『爲兼卿和歌抄』の「心」重視の思想は歌論および實作においても充實に具現されていることが爲兼の歌を通して知ることができ、そういった爲兼の歌論が以後京極派歌人に大きな影響を及ぼして行くことになったのである。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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