本稿は比較文學の硏究方法により、文學と宗敎が一地点で向かい合う宗敎詩の觀点から宮澤賢治と韓龍雲の詩と童話を檢討した。兩詩人は、佛敎の行者でありながら社會運動家でもあって、彼らの作品にはその影が確かに反映されていると考えられる。そういう視座から鑛物イメ-ジの水晶と眞珠の結晶性を천ってみたところ、それは、詩人としての主體の意識の透明性と結晶性、時間性と持續性によって成された産物であった。絶對者、あるいは佛への絶え間ない指向性は時間性の中で結晶性を獲得していくが、その場合、詩人は佛と合一するために自己の內的鬪爭をすることになる。宗敎詩はその强烈度によって完熟していく。この時、水晶と眞珠は統一體として能動的中心となる。一方、金剛石は水晶の純化されたもので、「十力の金剛石」では如來の力、又は宇宙の透明なエネルギ-であった。寶石で造られた植物が十力の金剛石を待っていたのも、王子が持っていたことのない寶石を探しに野原へ出たのも同じことで讀み取ることができるだろう。