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KCI 후보
아베 요시시게(安倍能成)의 눈에 비친 조선 -조선견문기 『청구잡기(靑丘雜記)』를 중심으로
安倍能成の見た朝鮮
가미야미호
UCI I410-ECN-0102-2008-800-002559019

松山出身の安倍能成(1883~1966)は東京帝國大學哲學科を卒業後、ヨ一ロッパに留學を經て1926年、京城帝大哲學科の敎授として京城にやってきた。赴任當初はかつてギリシャの哲學家プラトンがアテネ市民と設話をしながら彼らを敎育したという逸話を例にとりながら、京城帝大の學生と對話を通して交流したいと話している。それほどに大きな期待を抱いて渡ってきた彼はまた、柳宗悅や淺川巧のような朝鮮に造詣が深い人物と交わりをもちながら、朝鮮各地を見て步いた。特に安倍は朝鮮の自然や文化、風俗に關心を持ち、のちに大阪朝日新聞に京城での生活に關するコラムを連載し、1932年にはこれらの文章を『靑丘雜記』という1冊の本にまとめている。『靑丘雜記』で安倍は``觀察者``の立場から當時の樣子を描寫するのみにとどめており、ここから本國の政治や植民地政策自體に對する批判については伺い知ることができない。しかしながら、京城に住む內地からの移住者の生活を、むやみに日本の文化を持ち입みそれを矮小化しているだけでなく、朝鮮の文化と混じり合っていないと批判的に見ている。つまり、內鮮融和や一體を叫びながらもほとんど進行していないのは內地からの移住者が朝鮮人に溶け입もうとしないためだとし、兩者間の間に今だ距離があることを指摘している。1920年代半ばからうち出されるようになったいわゆる文化政策は、兩者間の制度的な差別の解消を目的とした政策の延長線上にあり、その差別解消の必要性を當時の日本政府が感じるきっかけになったのが3.1運動であった。つまり日本側はこの運動が朝鮮人に對する差別扱いに起因するものと捉え、あらゆる面で差別待遇を改善していこうとしたのであった。そのためには內鮮融和が必要不可欠であった。京城帝大もまたこの內鮮融和路線の一環として設置された敎育機關であった。從って安倍もまたこの政策の遂行の一翼を단っていたといえる。しかしながら安倍は京城帝大で多くの學生と接しているうちに、兩者間の考え方の差異に氣づいたと思われる。日本側があまりに現實を見ていなかったということ、そして自らがつねに語っていた文化というものが植民地という現實では理論的に說得力を持たないことなど、理想と現實の間で노んだ末、朝鮮を離れることを決意する。結局彼と朝鮮人學生とのあいだには、プラトンとアテネ市民のような對話がうまく成立しなかったためだ。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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