本稿は日本の作家である芥川龍之介と韓國の李箱の小說から「齒車」と「失花」を中心にその表現法における類似性を考察したものである。いわゆる20世紀の小說文學を理解するのに重要で核心的な槪念である<意識の流れ>という技法は文字どおり論理的な因果關係のない談話などが入りまじながら微分化された狀態の意識が浮び上がり次第に記述される表現法で、芥川と李箱の小說兩方に現われる。そのような技法で書かれたこの小說の特徵はひんぱんな場面轉換と主人公の回想と連想作用などに現われ、同じ語句の繰り返しが詩的なリズム感と作品での主人公の意識を連結する意圖的な暗號となっている。それだけでなく、語句の繰り返しは小說の各章を連結する意圖的な構成とも受け取れ、また多くのアポリズムと外國語の多用、象徵的な色彩のイメ一ジが小說に匿名性を持たせた結果、小說における敍事性が弱化する傾向があらわれたのである。このような現象は芥川においては<話らしい話のない小說>を表明した文芸理論の結果であり、李箱においては時代相を反映した檢閱の問題と1930年代の韓國で流行していた短文主義の影響であろうと思われる。結局、このような技法は小說における話(プロット)があまり重要でないという、いわば<詩的小說>として現われるようになったといえるだろう。このような詩的小說はその特性上全般的に小說の敍事性が弱化する特徵があり、敍事性の弱化とは作家が不安定な個人の思考とさらに、主體が述の對象としての現實の不透明性(不定性)を認識していることを表す意味があると思われる。