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KCI 등재
아쿠타가와(芥川)의 「신기루(蜃氣樓)」에 나타난 "꺼림칙함(無氣味)"의 실체 -일상에 나타난 상징적인 죽음-
芥川龍之介の「蜃氣樓」に現われた<無氣味>の實體 -日常世界に現われた象徵的な死-
윤상현
세계문학비교연구 22권 109-125(17pages)
UCI I410-ECN-0102-2009-800-008437181

作品「蜃氣樓」の時間的、空間的背景に現われた<無氣味>はまさしく死であった。同時に、それは芥川自ら自分の日常世界に圍まれた死を告げていると言えよう。1926年頃、芥川は佐佐木茂索宛に「多事、多難、多憂、蛇のやうに冬眠したい」(1926, 9, 16)や「鴉片エキス、ホミカ、下劑、ヴエロナアル- 藥を食つて生きてゐるやうだ」(1926, 12, 2)と書いているように、當時彼は1926年から1927年自殺するまでの約二年の間、いわば死の世界の中で生きていたと言えよう。そして、このような死の世界で彼自らできることは「唯發狂か自殺か」(「或阿?の一生」、<49 剝製の白鳥>·全集9·p. 336)であった。實際芥川は「羅生門」を始め、自分の決められた運命、すなわち實母ふくの遺傳による死から逃れるために文學創作を通した藝術至上主義を追求してきた。それは虛構世界に登場した狂人や愚人が藝術的な感激(あるいは、宗敎的な昇華)によって超人や聖人として永遠なる生を得たように、自分も日常世界で狂人による死ではなく、天才による生を求めようとしたのである。しかし、1926年に發表した「点鬼簿」では自分が狂人の子であると告白している。ということは、この告白こそ今まで追求してきた藝術至上主義の終焉を意味すると同時に、自分も實母ふくのようにいつか狂人で死んでしまうという運命を受け入れているのである。勿論「羅生門」以前の作品からもこのような死の世界が現われている。しかし、初期作品(1909∼1915,4)に現われている死は幼い芥川にとって抽象的·感傷的·抒情的なことであった。それに反して後期作品(1926,10∼1927,7)に現われている死は實質的·現實的·具體的に變わっていく。したがって、そういう意味で「蜃氣樓」を中心に1927年に書かれた作品の中では彼の日常世界に圍まれた死が<無氣味>の實體としてこれから近づく自分の運命をそのまま告白した作品であると言える。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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