13.58.247.31
13.58.247.31
close menu
KCI 등재
다쿠보쿠(啄木)의 『한줌의 모래』와 <게>의 이미지
啄木の『一握の砂』と<蟹>のイメ―ジ
손순옥
세계문학비교연구 29권 145-173(29pages)
UCI I410-ECN-0102-2012-800-000863446

石川啄木の歌集『一握の砂』と卷頭歌について考察してみた。卷頭歌は日本であまり有名な歌であるだけに、收拾つかぬほど諸說紛紛であるが、大ざっぱに整理すればそれらは二大別できる。一つは、『海』『磯』にどこか實在の海浜を探り、追憶に泣いている作者の心を歌の主題とみる立場、一つは『海』も『磯』も抽象的、槪念的構圖の一部とみて、象徵的技法の中で作者が「泣きぬれて」いる歌と解する立場である。でも最近は、特定の場所や一定の時期への追憶といった要素をもちこむよりも、一般的な心情の表出と解するほうが、代表歌とされた理由として認められている。私も「一定の時期への追憶」でもなく、場所が「大森浜」とも解しない。啄木は「大森浜」への追憶はちゃんと「しらなみの寄せて騷げる函館の大森浜に思ひしことども」と歌っている。「東海の小島」は多くの硏究者が指摘しているとおり「日本國」だとも鑑賞できる。それに、「東海」「磯」よりも「蟹」が大事なキ―ワ―ドだと思う。「蟹」は「立體的な場面構成が收斂する一点として」の동きばかりでなく、作者の時代に抵抗するメタファ―としての동きもある。「我を愛する歌」という言葉はその時代にあっては高らかな宣言のような響きを持っていた。啄木が호えた意識をもって、この「蟹」をわざと素材として取っていたと思う。彼の詩「蟹に」も歌われる「かしこき蟹」であり、「人がみな/同じ方角に向いて行く.。/それを橫より見ているこころ。(悲しき玩具)」の視線は橫ばいする「蟹」の視線とつながっていると思う。眞正な價値も知らずに「同じ方角に向いて行く」時代の道に啄木は橫ばいをして逆らいたい、またぶつかりたい氣持を「蟹」に託していたと鑑賞できる。「かしこき蟹」という詩語に注目したい。「泣きぬれて」は時代への精神的な悲しみをたっぷりと表した表現だったと思われる。「眞面目にして熱心なる人の常に有つかなしみ」に違いない。そして「蟹とたわむる」にはあまり感傷的な雰圍氣が傳わってこない。「蟹」は日本の抒情詩によく出てくる「かもめ」や「ちどり」のイメ―ジとは異なる。觸りにくく、あらっぽい感じである。冒頭の「東海の小島…」の歌は「自己の小ささの嘆いている歌」でもなく、「みじめな生涯を自憫する啄木の悲鳴」ではないと言えよう。プロロ―グとエピロ―グまで考えながら編集した啄木だけに、ただの感傷にまかせて詠んだとは思えない。詩人啄木は病氣にかかり、貧しい暮らしにも負けず正義感に溢れて「時代閉塞の現狀」を述べた堂堂たる魂の持ち主であった。啄木は「蟹」に託して時代の流れに抵抗していたとおもう。「一握の砂」はその當時の潤いのない孤獨な近代人の生活を暗示しているように思われる。歌集の中で歌われている人人は、作家を含めて、妻·母·女の敎師·イエス·クリストの道を說く若い女·眉の秀でた少年·芸者·牢にある友·植民地の友などである。ちいさい<蟹>のようで、橫ばいできる意識をもっていた隣人への作家の視線である。それが今も啄木が讀まれる理由であろう。啄木は、時代性と內面性を共に活かした、稀に見る作家であった。

[자료제공 : 네이버학술정보]
×