國師も當代の權力なら權力だった。いや權力の核心の中、一つだった。しかし、國師だった一然は、そんな權力さえ置いておいて都落ちしたし、『三國遺事』の編纂はあの時から本格化されたようだ。八十歲を眺める老僧に、一生の經驗は自然に政治的な感覺で席を取ってぃた。武臣間の權力鬪い、モンゴルとの戰爭が彼の生涯、始終續いた。そんな渦中に、國師の席にまで上がったから、そのまた政治的な流れの中の一部分を占めた。それで作られた政治的な感覺は、彼の<三國遺事書き取り>に、ある種の役目をするのに十分であった。この文は、一然の政治的認識と性向が、『三國遺事』の著述にどんなに現われるかをよく見るのに、一次的な目的がある。それは、すなわち『三國遺事』の敍述方法を調べる事の中、一つだ。ここで、`政治的`という言葉は、`世の中のすべての權力に對立して、創造的な生を長續きさせる努力`という意味で、一然の`三國遺事著述`はその意味の線上に置かれている。具體的に、善德女王と武烈王、そして文武王を形象化した一然の視角を分析した。金春秋を描く一然の敍述方法は、まことに獨特だ。春秋が百濟を征伐する書き入れ時で、ほとんど全面的に『三國史記』を引用したが、新羅の百濟征伐の書き入れ時は、春秋が主人公である新羅本紀ではなく、義子王が主人公である百濟本紀から取った。そうしたら、勝者である春秋より敗者である義子王が主人公のように登場する。主人公が中心にないのに、それでも周りの人だ、言えない絶妙の書き입みで成った。一然は、彼の時代で眺めた、戰爭の勝敗が與える歷史の敎訓を搜そうというところ、その極めの目的を置かなかったかと思う。このような一然の政治的感覺は、大きく二つの背景で形成されたはずだ。一つは、彼が佛佛僧だったという点だ。佛敎的世界觀が政治化になる過程で。新羅が先進化になる經路の中の佛敎を理解した。他の一つは、國師という席が持った、一定な政治的荷物だ。一然は政治の權力化に落ちこまなかったし、權力の政治化を警戒した。國師で引退して都落ちしたことは、こんなに理解される。彼は『三國遺事』の編纂で、世の中と權力に對してメッセ一ジを投げただけだ。