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KCI 등재
일본문학(日本文學),일본학(日本學) : 시마자키 도손(島崎藤村)의 「수채화가(水彩畵家)」론 -장르 의식의 변화를 중심으로-
日本文,學日本學 : 島崎藤村の「水彩畵家」論 -ジャンル意識の變化を中心として-
김남경 ( Nam Kyoung Kim )
UCI I410-ECN-0102-2012-730-001880433

「水彩畵家」(1904)は、島崎藤村の最後の詩集『落梅集』と最初の長篇小說『破戒』との間に發表された短篇小說である。この作品は、繪畵の單一な印象と現在の瞬間とをエピソ―ドという形式で描きながら、短篇の寫生的なリアリティ―を表した作品であったと思う。小說の短篇化は、人生の劇的な表現を、短縮されたリズムで散文化することで、ジャンルの藝術的な可能性を可視化したと見える。作品の中で注目したいのは、<つれづれ>の解消であり、航海紀念となった鸚鵡が異國情緖や運命的な巡り合いの象徵として終始を飾っている点と、そして一年間の逸話を展開するにあたっても、秋(日暮れ)·冬(早期)·春(夜明け)·夏(夜)を意識しての構成である点から、淸少納言の自然に關する寫生を積極的に配置することによって、藤村が自分だけのエピソ―ドの展開方式を探し求めようとしたと思われる。藤村は、主人公の運命を夢と日常の對立、すなわち幻影と現實の巧妙な交差に誘い導くことで、讀者に作家の結婚生活のジレンマと文學の龜裂を追跡させているようである。また、期待と不安という二重情緖でスケッチするにあたって、<眞夏の夜の夢>と係わるシェ―クスピアの劇とメンデルスゾ―ンの音樂の揷入裝置は、ジャンルの潛在力を可視化させようとする彼の意圖であったと言える。作品に登場する主人公の三つの結婚を作家の文學ジャンルに當てはめて分析してみると、第一の結婚は、<幸せな夜>の夢をみたような美しい詩との出會いである。「落梅集」を最後に、詩との因緣を舊い情人としたのは、耐えがたい大衆からの指摘もあったが、生明の力であった<夢>を失いたくない氣持ちが强かったと言える。第二の結婚は、漠然とした空想の中でみた<晝の幻影>である。藤村の夢見た結婚生活と文學が、實狀とは違う幻影であったことを、優曇華や鸚鵡のような動植物を通じて、象徵的に描寫したのである。第三の結婚は、<新しく迎る朝>、新な生涯への出發である。暗い夜、夢の中での悲劇や喜劇は、眠りから覺めると虛妄で無意味になるように、人間の食い違った運命もやはり生命の循環の中でその意味が失われてしまうのである。藤村にとって、新しい朝を迎たとは新しいビジョンを迎ているという意味として解釋できるのであろう。以上、三つの結婚を綜合すると、夜と晝と朝が一日を成すように、詩と隨筆と短篇は小說という巨大なメカニズムの一部として、藤村文學の骨格を形成してきたことが分かる。特に、當時の水彩畵ブ―ムは藤村の短篇の習作を推動し、引いていく動力として作用していたようである。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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