金時明(1906-?)は、1940年代の朝鮮文壇を代表していた金史良(1914-?)の兄である。彼は朝鮮總督府の官僚であったということで、民族問題硏究所が發刊した『親日人名辭典』に載っている人物でもある。金史良の「草深し」には、彼をモティ―フにしていたと思われる郡守が登場するが、ここで郡守のキャラクタ―は多少滑稽である。それは必ずしも金時明をモデルにしているというわけではなく、むしろ彼を通して植民地朝鮮の官僚達の置かれていた狀況の悲哀を描いているものと思われる。確かに金時明は、日本帝國主義に協力した人物である。しかし、當時の貧しい火田民のための彼の努力が見られる頌德碑は彼のことを考え直させる。當時、火田民七千名余を食べさせたといわれる彼の努力と行政能力は、親日の問題とは別のこととして今でも江原道の山村では記念されている。その努力は彼の民衆への憐憫の發露であった。『親日人名辭典』は、植民地時代と今日を反映する資料として少なくない意味を持っているものに違いない。しかし、それは決して「過去淸算」の完結ではありえない。植民地時代に高等文官以上だったり、少佐以上だったりしたという一律的な基準をもってあの時代の人人を評價するのは非合理的である。なお、植民地時代の責任を問う形でなされた「處刑」もまた、大體は新しい命令系統によって行なわれたことも見逃してはいけない。金時明の處刑もそうだったはずである。權威と支配の暴力構造が權威者の手を汚さない形で成立していることを直視することこそ、我我にとって、より現實的な課題であるかもしれない。