本稿は、本居宣長が「皇國」至上主義の代表として、また近代において「日本」論の原型として利用されてきた、いわゆる「宣長問題」と呼ばれる問題を再考するものである彼は確かに「皇國」という語を自覺的に選擇し頻繁に使用した。しかし、彼が最初から「皇國」を用いたわけではなく、それは彼の大著「古事記傳」の段階において、すなわち「古事記」注釋の過程のなかで意識され始めたものと見られる。一般に、宣長の偏狹で信仰的な「皇國」主義と「古事記傳』における緻密な學問的態度とは矛盾するように峻別して評價されてきたが、そういった視点は宣長理解ないし宣長批判としても正確ではない。具體的には、宜長が自國をあらわす用語を「御國」から「皇國」へと書き替えたことに注目し、そして、そこにおいて荻生조徠の「皇和」という語の發見が前提になっていることを指摘した。よって、조徠の中華至上主義と宜長の「皇國」至上主義といった圖式的な理解は、いずれもあくまで現代の國家意識を持ち입んだ議論に過ぎないと批判することができる。論旨を展開するにあたって、順序としては逆のようだが、近代日本の代表的な宣長言說から論じ始めた。主に村岡典嗣と丸山眞男の宣長論に觸れたのは、第一に、兩者が日本思想史の構築という同時代の問題意識をもって、思想史學の方法論を宣長に求めた点、それ故に宣長の神話解釋に依據してしまった点を指摘するためであった。第二に、兩者により定說となった조徠學と宣長學の影響において、とりわけそれは歷史認識を規定する古文辭學の方法の側面であったが、實はそれ以上に、「皇國」という語の選擇をめぐっても深い關連が確認されるからであった。その点が他ならぬ조徠や宜長にとっての現代的な課題であったと考えられる。