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KCI 등재
일본문학(日本文學),일본학(日本學) 편(篇) : 다케노 조오(武野紹鷗)의 「와비문(侘びの文)」고찰
日本文學,日本學 篇 : 武野紹鷗の「侘びの文」考察
조용란 ( Yong Lan Cho )
UCI I410-ECN-0102-2012-730-001722612

今までの茶道硏究では、千利休に注目して、「侘び茶」は名物がない無一物の精神的なイメ―ジとして解釋されてきたが、本稿は「侘びの文」を通して、師紹鷗の侘數寄に對して考察した。紹鷗は當時上流階層が樂しんだ和歌·連歌の美意識を茶道に借用し、日本茶道の價値を設定した重要な人物である。「侘びの文」は利休へ宛てる敎訓として、侘びの定義·茶事の根源·侘びの構造や茶の湯の未來に對する懸念まで書かれていた。「侘び」の定義では正直と愼みを强調し、茶事には隱遁と閑居、ありのままもてなす自然さを言っている。そして、侘びの根本を日本信仰の神道から探そうとする日本的な意識を持っている。和歌の敎本である「詠歌大槪」の序文では、歌は古い形の中で、新しい作爲を持って作るように敎えているが、紹鷗はこの序文を自分なりに解釋し、茶道具に對する態度として、珍しい道具を求めず新しい道具も求めないように敎えている。紹鷗の「侘び」は、唐物所持の書院茶を味あわないと、對極にある草庵茶を設定できないので、もしかして贅澤で豊かな世界かもしれない。俗世から離れた隱遁が必要し、歌道や佛道に共通する心の姿勢が茶にも通じる。珠光が自慢は惡いですが、向上心は重要だと言っているのに比べて、紹鷗は世の中との距離を保ち、身分を控えて、珍しい物や新しい物も求めず有りのままに滿足しないといけないという知足を言っている。彼の茶風を例え、吉野山の滿開した春を過ぎて夏も越えた後、秋の夜空の月、その月光に映っている紅葉と似ているという。この表現は彼が死んだ時期と通じる。また紹鷗が目指した茶の湯の境地とは「枯れかしけ寒かれ」であったとされる。これは木が冬に向かってすべての葉っぱが落ち、枯れた物理的な狀態を表す。卽ち、悟りの境地、欲を捨てた姿を意味する。兩方とも華麗な經驗を經て、愼んでいる姿だと思われる。紹鷗の茶は唐物を大事にしながらも、名物を自慢して飾るのではなく、一品だけを飾る一品名品主義ではないかと思う。不幸に息子と?の間の資産紛爭のせいで、紹鷗は唯侘び茶の展開者として決められているのがもどかしい。彼はお茶に珠光の調和の精神を受け入れながらも、日本的な和物の强調や自己省察を探そうとした。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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