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장혁주의 생애와 문학
張赫宙の生涯と文學
시라카와유타카
인문논총 47권 59-78(20pages)
UCI I410-ECN-0102-2012-220-002250065

張赫宙(本名:恩重二1905-98)は大邱に生まれ、地元の高等普通學校卒業後、敎師生活の傍ら、日本語習作を始め、1932年に短篇「餓鬼道」が『改造』誌 の懸賞に入選作となり、日本丈壇に登壇した作家である。彼は朝鮮語作品も10敷篇殘しているが、それに敷倍する日本語作品を護表した。その作品傾向は多岐 にわたるが、槪ね、プロレタリア丈擊の同伴者丈擊的作品で出費した後、すぐ自己の休驗や傳聞をもとにした朝鮮の風俗物に作風を蔣じ、その後、純粹フィクションも書いたが、自傳的要素の多い作品も敷多く殘した。ここには張の自己の生い立ちに關わる强い、執着が見て取れる。1940年代前半の太平洋戰爭期には、日本の國策に迎合的な作品も書いたが、量的には案外、多くはない。にもかかわらず、彼が<親日文學者>という汚名を背負ってきたのは、むしろ作品外の言動にその主な原因がある。張赫宙は批判されると感情的に反應して頑なになるという、自己防衛意識の非常に强い作家で、このことが彼の後半生をその業績の割には悲劇的なものとしたのである。<親日派>指彈の中、戰後も彼の創作活動は日本で旺盛に續けられた。その最大の結實が長編「鳴呼朝鮮」(1952年)である。彼はこの作品で捨てたはずの祖國の慘敗に근哭するのである。しかし一方で、この作品には選擇不可能な大狀況の中で個人はあくまで無力であるという自己弁明の論理が隱されていることも事實であろう。この姿勢は實は1945年以前の作品の中にも共通して見え隱れしているのであるが、そのような張の意圖と心情が理解できる日本の讀者は少なかったはずである。多くの讀者はその都度手輕な讀み物として彼の作品を消費していった。それゆえ、多彩な新人作家が登場した戰後の日本丈壇において張赫宙の影響力は急速に失われていった。彼は最晩年までノンフィクション、英文小說にまで手を廣げて執筆活動を續けたが、ついには祖國でも日本でもほとんど忘れられた作家として寂しい死を迎えたのである。兩國の狹間で綱渡り人生を强いられた張赫宙ではあるが、その文學の質と量を思う時、決して忘却の作家たらしめるべきではないと考える。この作家に對する總合的な再評價が待たれるところである。(了)

[자료제공 : 네이버학술정보]
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