良秀の「恍惚たる悲壯の感激」と感じる部分を中心にして、作品の批判的視点およびそれに對する批判を付け加えてみた。從來の理解はおおむね、娘を良秀が持つ「たった一つ人間らしい情愛」の對象ということに止まっていた。しかし、筆者は、語り手が理解する娘の意味にすぎないと思った。この二人の關係においても子煩惱的次元で愛をとらえてはいなかったのではないかと思われる。語り手のこのような恣意的判斷はこれ以後もしばしば繰り返されている。その上、良秀の芸術家としての苦惱の核を見るべきだと考えるが、しかし良秀の芸術の評價が實在感の有無、その都合に向けられている点にまず留意しなければならない。つまり、その實在感は、あくまで芸術的追求、技術的加工によって作り出されたものとして意識されている。だから、それは極めて意識的な、芥川の創作方法に基づいた行爲であろう。それは肝心の良秀や大殿は語り手の偏った眼と世間の준を通して紹介されるのみで、その內面に立ち入った心理描寫などは當然のことながら一切ない。したがって兩者のの心理や行動に付きまとう一種の曖昧さは避けられない。それは、地獄變神話、傳說と呼ぶ物語そのものの觀念的な圖取りが、ほとんど自動的に描き出されたということ自體に、この作品の性質とまた一面において底の淺さとがあるのではないかと思う。