日本佛敎で行われている追善供養は日本民俗と融合することによって民衆の間に定着しているが、それを支える觀念は日本固有のものというよりは、複葬という葬制から派生した東アジアに共通の觀念であるというのが筆者の持論である。その象徵構造、すなわち死後<魂の狀態>が不淨の死靈から淨化された死靈に、<魂の位置>がこの世とあの世の中間位置からあの世に、死者に感じる<遺族の心理>が恐怖から親しみに、そして<遺族との關係>において死者が危險な存在から有益な存在への移行は、宗派を問わず 全ての追善供養に反映されている。このような構造は本質的には民間信仰の心意に由來しているわけだが、佛敎儀禮として成立している限り、敎理的にどのような意味が付與されているかは看過できない。眞言宗は基本的に生死を超越し自ら修行することによって成佛するという敎理を持つため、追善供養を根据づける契機は持たないが、布敎戰略としてその期間の延長に積極的に關與してきた。それに劣らず、東アジアに由來する民衆の世界觀がインド發祥の密敎的な世界觀を受容し難かった、という事情も考慮されるべきであろう。