那智から新宮、さらに北上する海邊にかけての熊野の地は、スクナヒコナの常世國への去來や、神武天皇の東征傳承が傳えるように、古くから海の彼方に理想鄕を描いてきた宗敎風土があった。常世國とは、日本民族が少なくとも佛敎公傳以前にすでに持っていた在來の宗敎意識を含む世界觀が作り上げた、現實感を伴う憧れの理想鄕である。しかし常世信仰は後世になると、中國の道敎の影響で不老不死を求める神仙思想と深く結び付いていく。これを推古天皇以來の代表的な崇佛派の河勝が打ち懲らしたという皇極天皇條の「常世神」信仰への彈壓事件は、佛敎傳來以前に渡來した民間道敎の流れとして常世信仰が民間に廣がっていたことを意味している。一方、修驗道と關連し、奈良時代の佛敎說話を集めた『日本靈異記』に熊野に住んだ永興禪師と捨身行を行った僧の話が記述されている。永興禪師のところに法華經を唱えるのを習わしとしていた僧がやってきて、山の中に入って修行したいと禪師のもとを去る。二年後、麻繩で足を縛り、投身して岩に吊り下がっていた修行の死體を見つけた。さらに三年經っても、??になった禪師の舌が腐らず、法華經を誦していた。その死は一種の捨身行とみることができ、その行動の基底には熊野を他界への入り口とみる前代からの意識が存在する。古來熊野は黃泉の國や根の國、さらには常世の國といった他界への入り口として捉えられていた。その意味では、本話の僧を補陀落渡海の先踪とみることもできる。10世紀から11世紀初期にかけて、熊野と吉野を結ぶ大峰修行路が成立して、それに伴って熊野本宮が山岳修行者の聖所となり、しだいに熊野修驗道の中心的な靈場に發展していく。これは常世を信仰對象として、邊路修行を中心とする那智、新宮の初期の海の修驗道から本宮を中心とする山の修驗道の覇權が移っていく過程でもある。こうした熊野三山の成立は、それまでの熊野を死者の靈のこもる暗い世界とする宗敎觀念を變化させたのである。つまり本宮を阿彌陀如來の淨土にすることによって、古代熊野(出雲側)の死のイメ一ジと結び付け、那智、新宮を觀音と藥師の聖地に想定することによって、古代熊野の生ないし再生のイメ一ジと結びつけたのである。