中世末から近世初へかけて盛んであった說經、古淨瑠璃などの語り物の多くは家の沒 落と再興の樣相を本地譚の構成で綴るという共通点を示す。ところで語り手は家族の解 體と家の再繁盛というテ一マを語るにあたって家族構成員の役割を固定し、その存在性 に差をつけることによっていわゆる理想的な家族像を創り出している。したがって本稿 は古淨瑠璃一心二河白道に現れた家族像を主に女主人公である櫻姬と父親ならびに 夫との關係性を中心に眺め、家族共同體の危機と再繁盛を成し遂げる過程の內に見られ る娘の存在位相あるいは役割、そして神佛の救濟の有樣などを考察してみた。 この作品は當時、多くの語り物がそうであったように神佛の本綠を說く本地物の形式 を借りて家族共同體の解體及び再繁盛の樣子をテ一マとする。しかし家の危機ないし沒 落の原因を主に家父長の不在に求めている他の語り物とは違って一心二河白道で は家の危機をもたらすものとして娘の重層的な位相を擧げており、娘自ら自分の負的 な存在性を取り除いていく過程を家の復興の過程と連動して語っている。 このような展開で語り手は娘のイメ一ジを家の解體の動因であると同時に家繁盛の主 役であるという、相容れない二つの存在性をあわせ持った人物として作り上げる。した がって娘の櫻姬は自分の負的な存在性を原罪として受け入れ、これらの罪を贖うために 出家し、やがて家の跡取りとなるべき男の子を生むことによって娘としての義務を全う するのである。 一方、娘の出家と極樂往生の有樣を追求してみれば、あたかもこれらは彼女自ら選んだ 行動の結果のように說かれているが、實は物語の行間には男性の邪戀による罪業さえ女性 に報いさせるといういわば女人罪障說に基づいた救濟の論理が動いているといえる。