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KCI 등재
다카무라 고타로(高村光太郞)의 자기유적(自己流謫)
高村光太郞の詩における自己流謫
김문봉
일본연구 44권 167-187(21pages)
UCI I410-ECN-0102-2017-830-000378986

本稿は, 高村光太郎の詩における自己流謫について考察したのである。光太郎において自己流謫の意味が何であり, どんなきっかけを通じて自己流謫が行われ, どのような在り方と內容で展開していったかを考察したものである。自己流謫の樣相は肉體的なものと精神的なものに分けて考察してみたが, その結果を整理すると次のようである。1)光太郎における自己流謫は, 中日戰爭の勃發直後から戰後最初期に至るまで自信の戰爭詩人として犯した過ちと罪過について身を東北岩手縣の酷しい山小屋に置き, 山林孤棲を通して自身の暗愚や愚劣の典型を極める自己究明を指す。  2)光太郎は敗戰後,その身を東北の酷しい山小屋に置き, 肉體的にはもはや自己流謫の道を步んでいて, 精神的には相變わらず戰爭詩人の立場に立って, 文化强國を築くことによって世界制覇を夢見る稀に見る特異な存在であった。3)光太郎に本格的な自己流謫は, 戰後民主化の進展に從って自身に及んでくる戰爭責任の追窮と戰犯の處罰要求, そして自身の天皇(制)からの解放からくるものであった。自省の始まりは自分の詩のために多くの草分が死んで行ったことであった。4)肉體的の自己流謫の在り方は, 嚴酷な自然の中での孤節された老軀の苦痛と限りない忍耐と積雪, 山小屋の暮らしの喜びとしゃれ, 造型と精神と女體の飢餓からくる人體飢餓の極限狀況に追われる。そこで求めていったのは智惠子の世界であった。智惠子との共存を通じて山小屋暮らしは一層活氣を帶び, とうとう人に贈り物を送るようなかいのある暮らしぶりである。智惠子との世界を實現した光太郎が出會ったのは諦念と觀照の無機世界であった。光太郎の肉體的な自己流謫は7年間にかけての實に充實な茨の道程であった。5)光太郎の精神的な自己流謫は暗愚と典型を見極める自己究明であった。これは自分の過ちについての自省, 天皇(制)に對する態度などのものと, 自分の考え方がどのように變わっていったかの問題に分けられる。「暗愚」では解明と辨明で彩られている。「蔣先生に慙謝す」, 脫却の歌」「典型」に至る。自省と謝罪の水準は進んだが, 天皇の戰爭責任を認めていない点, 光太郞の自省と謝罪の眞正性には依然として問題が殘る。光太郎が求めて行った東洋的な新しい秩序の築きによる東洋的な價値の重視と回歸と日本的な回歸は戰爭期のそれとは異なる國際主義の性格を含んだものであるが, 抒情の變革期の光太郞の「綠色の太陽」のそれと比べれば後退である。

[자료제공 : 네이버학술정보]
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