近代児童文学の父である方定煥は、韓国人にとって「小波(ソパ)」という雅号で親しい存在である。つまり、韓国人にとって「小波」という言葉は、方定煥を想起させるものである。しかし、日本人にとっても「小波」という言葉は、近代児童文学の父である人物を想起させる言葉として働く。その人物とは、巖谷小波である。1891年に発表した彼の児童文学の処女作「こがね丸」は、日本の近代児童文学を開いた画期的な作品として評価されている。その後「お伽噺」という用語を用いて、昔から伝わる民話や名作などを改作し、「日本昔噺」「日本お伽噺」などの叢書を刊行した業績によって、現在まで児童文学の先駆者として位置づけられている。1896年初めて口演童話を試みた巖谷小波は、1930年ころまで日本全国を廻りながら口演童話活動を行った。彼の口演童話活動は日本国内にとどまらず、1913年から1930年まで全4回にわたって朝鮮半島に足を運んでいる。一方、方定煥は、1917年から執筆活動を初め、1920年を前後に活発な口演童話活動を行っていた。すなわち、方定煥と巖谷小波は、同時代に日本と朝鮮に存在した二人の「小波」なのである。本稿は、今まで先行研究がなかった巖谷小波の朝鮮における活動を紹介することに意義を持ち、なお、巖谷小波が朝鮮で活動した同時期に朝鮮に存在したもう一人の「小波」 、方定煥の存在に焦点を合わせたものである。同時代に日本と朝鮮で、児童文学という開拓地に携わっていた「小波」とう名が持つ意味合いについて考察する。
(九州大学大学院)