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일어일문학연구검색

Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 102권 2호 (2017)

구로사와 아키라의《란亂》: 고전에서 영화로의 궤적

이시준 ( Lee Si-jun )
5,700
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黑澤明は、西洋のシェ一クスピアの『リア王』を「戰國時代」という日本の時代的背景に合わせて、原典とは違う新しい映畵を完成した。原典と異なる主要項目を擧げると以下の通りである。第一に、原典の『リア王』の二重プロットを單純化し、登場人物のキャラクタ一の變化などを通じて、自分の哲學を基盤とした新しい主題意識を作り上げた。第二に、原典のリア王にはなかった殘酷な過去を秀虎に付與することによって、子息たちの殘忍で非人道的な仕打を合理化し、秀虎の自分省察の過程を見事に描き出すことができた。第三に、權力への野望を剝き出しにした群像の殺戮を通じて、冷酷で非情な「下克上」の日本の中世の社會像を構築した。第四に、シェ一クスピアの『リア王』は一般的な批評の觀点から、キリスト敎の色彩が强い、ドラマ的な道德劇と言われている。これに比べて、黑澤は、秀虎の過去の惡業と現在の苦難を、日本の傳統的な佛敎の因果應報思想から解釋している。監督が描いた現世は「地獄」そのものであって、人間の惡行によって佛さえ救援の手助けを伸ばすことができない。

매화가의 와카사적 고찰 - 다비토의 매화연가(梅花宴歌)를 중심으로-

구정호 ( Ku Jeong-ho )
5,300
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本稿は日本の詩歌文學の中で梅を素材とした和歌を中心にそれを文學史的側面から考察をおこなった。梅は中國から渡來した植物で、歌の素材としては奈良遷都以後の詩歌に詠まれたものである。梅が中國の文人に好まれたのは詠物詩の流行とともに當時盛んになった庭園造成のブ一ムによるものだった。このような狀況がそのまま日本に流入し、日本の文人の間に受容されていく過程を大伴旅人の梅宴歌を中心として考察をこころみた。 その結果、万葉集の梅歌は內容においては漢詩の主題であった「梅花落」の影響下にあったことが判明された。『万葉集』所收の梅の歌118首の內、梅の香を詠んだものは市原王の一首のみである。この一首を除いてはすべて梅の外觀の美に重点をおいたと言える。このような現象は万葉時代には漢詩の世界をそのまま?呑みした時期であってまだ和歌の獨創性は現われていない時期であるといえよう。

『해도기(海道記)』의 중세성

이영경 ( Lee Young-kyung )
5,300
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日本の中世紀行文は、古代の文學世界の繼承を基盤としている。それは名所をモチ一フとする記述で明確になる。『東關紀行』と『十六夜日記』とは、實景より和歌的な表現世界の觀念的なイメ一ジの樺組みの中で名所を鑑賞しようとした。しかしながら、兩紀行文よりも先立って成立した『海道記』の名所に對する敍述は、平安時代の傳統とは異なる視線である。『海道記』のこのような脫王朝的な樣相は、`道`の表現においても同樣である。『海道記』の表現は、同時代の他の紀行文とはことなり、東海道という`道`を媒介として展開される特徵を持つ。平安時代の旅が地方の任地に赴任した地方官によるものであるならば、中世時代は、`道`の制度的な整備を基盤とする。『海道記』の敍述は、そのような中世時代の`道`の意味と機能がよく表れている。 したがって、『海道記』の敍述は、傳統繼承の觀点で評價されるより、中世時代の時·空間を取り合わせた觀点でアプロ一チしなければならない。樣樣なジャンルの文學作品は、その國の社會と文化、價値觀などを理解する一つの手がかりになる。そうだとするなら、日本紀行文學において、傳統的な表現の繼承とは異なる樣相を持つ『海道記』こそ、日本の中世時代の文學と文化基盤を理解する例のバロメ一タ一と言えよう。

헤이안시대의 가어 「니오우」의 위상에 관한 연구 -삼대집(三代集)을 중심으로-

권혁인 ( Kwon Hyuk-in )
5,200
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본 연구는 `니오우` 라는 가어가 헤이안 시대에 있어서, 특히 삼대의 칙찬집에서 어떤 위상을 가지는지에 대해 고찰한 것이다. 일찍이 만엽시대 때부터 풍부하게 사용되었던 가어 `니오우`이지만, 그 의미 의 변화가 심하고, 따라서 각 시대별로 변모의 특징이 각각 다르게 나타난다. 그러나 이제까지의 연구는 사전적인 의미로써, 시각적 표현이 후각표현으로 바뀌면서 그 원초적인 만엽시대의 참뜻을 밝히는 데 선행연구가 집중되었었고, 헤이안 시대에 들어서도 겐지모노가타리의 용례를 들어서 `가오루`와의 차별성을 분석하는 데만 연구의 초점이 쏠려 있었다. 이에, 본 연구는 와카에 사용되는 `니오우`를 헤이안 시대의 작가들은 시각표현과 청각표현에서 어떻게 사용하고 읊었는지, 더 나아가 삼대집의 편집자들은 노래들을 취사선택할 때 어떤 인식을 하고 있었는지를 밝히려는 목표를 가지고 고찰 하였다

역서『우동 한 그릇』의 성격 연구

박상현 ( Park Sang-hyun )
5,300
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韓國版『一杯のうどん』に納められている栗良平の作品<一杯のうどん>には次のような特徵があった。第一、導入部は童話の內容を要約していた。第二、時間的背景は「ハレの日」すなわち、大晦日だった。第三、空間的背景は北海道だった。第四、登場人物の間には細かな心づかいが見えた。特に、客に對するうどん屋のオ一ナ一のもてなしが目立った。 一方、竹本幸之祐の作品<最後のお客樣>には以下のような特徵があった。第一、導入部は物語をまとめる役割を果たしていた。第二、時間的背景は「ハレの日」ではなく、單なる冬だった。第三、空間的背景は滋賀縣大津だった。第四、お菓子の店「春秋庵」で動いている店員、惠子の?細な心づかいが客に對する態度でよく現れていた。そして、それは惠子に商人の道、言い換えれば職人の精神があったからこそ可能だった。 韓國版『一杯のうどん』に收錄されている<一杯のうどん>と<最後のお客樣>は時間的及び空間的背景は一致していなかった。しかし、二つの作品には導入部の役割が共通していた。さらに客に對する商人の細かな心づかいも描かれていた。その点で、二つの作品は商人の道すかわち、職人の精神を主題としていると言える。したがって、兩作品は「商人の道」といった主題を共有した「連作」と見ることができる。つまり、韓國版『一杯のうどん』の性格は商人の道(職人の精神)を主題とした「連作童話集」だった。

이회성의 『유역으로』 연구 -죄의식 서술을 통한 이동 서사의 방법화-

김주영 ( Kim Joo-young )
5,200
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この論では李恢成の『流域へ』を對象にしてこの小說が在日朝鮮人文學からディアスポラ文學の領土への擴張性について考えてみたい。先行硏究の問題意識を參照しながら、ここではディアスポラ文學の可能性とその領土の擴張を可能足らしめる語りの戰略に焦点を合わせたい。 方法としてまず、在日朝鮮人文學からディアスポラ文學へ移行する時代の脈略を捉え返し、在日朝鮮人文學を越える戰略としてのディアスポラ連帶の物語の可能性、とりわけ罪意識を共有する語りを分析する。そして移動する物語と在日朝鮮人文學の微妙な文脈について考察を試みたい。

이토 게이치(伊藤桂一)의 전쟁문학 고찰 -「통천문(通天門)」을 중심으로-

조주희 ( Cho Joo-hee )
한국일어일문학회|일어일문학연구  102권 2호, 2017 pp. 115-135 ( 총 21 pages)
5,600
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本稿は伊藤桂一の「通天門」をテキストとして支配者と被支配者の關係にある日本軍兵隊と捕虜、日本軍兵隊と慰安婦がいかに描寫されているかを檢討したうえ、作家精神についての分析を行った。主人公である石尾は中國人の捕虜である章宗源に對して配慮と心配をする善良な支配者として描かれている。これに對して章宗源は石尾を尊敬し同和され、最後には彼の手によって射殺されることを望むようになる。結局作家は章宗源が見ず知らずの殘忍な兵隊の手で殺されるよりは、石尾の手によったほうがいいし、それは章宗源も願っているものだという支配者側の一方的な論理で主人公の行動を合理化し、殺人という暴力よりは寬容を强調しているといえる。 もう一つ、日本軍兵隊と中國人慰安婦の登秀の關係においては、性を買い賣りする關係ではあるが、お互いに愛し、將來までを約束するロマンティックな設定となっている。しかし石尾のただ一回の過失により二人の關係は破局を向かえる。ところでこれにまで至った經緯について石尾は自分の過ちに關しては'ただ'という一回生を强調して最小限する一方、慰安婦の登秀が自分を裏切ったといいながら號泣するのをみて、身をもって商賣する女においても信賴というのが大事であることを悟る。 この部分は支配者對被支配者、賣春の主體と客體、ひいては一般人と賣春婦という多樣な觀点で議論の余地があると思う。結論的にいうと、石尾はこの女性を蔑視しているといえる。つまり慰安婦は身を賣って儲ける存在であるという支配的談論が、慰安婦以前に、人間登秀という位置と、一人の女性として愛して痛手を感じられる存在であるという人間の基本的な感情をことごとく無視する無感覺で無知な暴力で繫がっているといえる。このところに作家、伊藤桂一の戰爭觀が讀み取れ、その限界を指摘したいと思うのである。

야마다 비묘 「무사시노」론 -본문의 차이를 중심으로-

홍성준 ( Hong Sung-joon )
한국일어일문학회|일어일문학연구  102권 2호, 2017 pp. 137-154 ( 총 18 pages)
5,300
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야마다 비묘는 언문일치체의 선구자로서 잘 알려져 있다. 그는 기존의 문체 에서 벗어나 속어를 적극적으로 사용하는 독특한 회화체를 활용하여 참신한 문체를 선보였다. 「무사시노」는 1887년 11월 20일ㆍ11월 23일ㆍ12월 6일자 요미우리신문에 연재되고, 1888년 8월 20일에 『나쓰코다테』의 간행과 함께 다시 발표되었다. 본 작품은 상편ㆍ중편ㆍ하편의 3부 구조이며, 각각 가부키의 단락 구성과 유사하게 구성되어 있다. 그런데 요미우리신문의 초출본과 『나쓰코다테』 수록본사 이에는 약 8개월이라는 시간 간격이 있으며, 이 시기에 작품에 수정이 가해져 있음을 확인할 수 있다. 첫째로 작품 서두와 말미에 오는 글을 수정하여 작품의 사실성을 높이고, 둘째로 시제를 과거형에서 현재형으로 변경하여 독자가 작품 세계 속에 실제로 존재하고 있는 것처럼 느끼게 하고, 셋째로 와카를 이용하여 작품의 분위기를 적절히 전환하고 있다. 또한 독자 옆에서 작품을 설명해 주는 화자를 등장시킴으로써 독자가 작품 세계 속으로 보다 깊게 빠져들 수 있도록 하였다. 본고에서는 역사상 있었던 일을 그린 작품인 「무사시노」가 독자에게 미지 의 세계와도 같은 과거의 세계를 이해시키기 위하여 다양한 수법을 이용하고 있음을 확인하였다. 또한 이러한 비묘의 수법이 작품의 판본에 따른 차이를 통 해서 명확해짐을 지적하였다.

자본제생산의 `주(主)`는 누구인가 -요코미쓰 리이치「기계」론-

김태경 ( Kim Te-gyung )
한국일어일문학회|일어일문학연구  102권 2호, 2017 pp. 155-170 ( 총 16 pages)
5,100
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小說「機械」の背景となるネ一ムプレ一ト製造所の主人は金錢を持つと必 ず途中で落してしまう。もとより商品の生産されるプロセスの初めと終りが 切斷されているのである。このような「機械」の構圖というのは、産業資本 主義時代において利潤が附與される過程、あるいは技術革新の問題をより鮮 明にするための設定にほかならない。 さらに本稿は、主人と共に主婦がいるという、卽ち主人とは別にもう一つ の「主」が存在することに注目したことから、知的資本を代表する主人と生 産手段を代表する主婦との緊張や葛藤の物語として「機械」を讀み直すこと ができた。心理的な人間關係論として處理してきた先行硏究とは違い、本稿 では小說「機械」を作者橫光利一の資本制生産に對する檢討書として位置付けたのである。 橫光は「機械」のなかで、意識の流れという形式的な實驗を行なうと共に、內容的な面においても産業資本主義時代以後の利潤産出に關する問題提起をし ようとした。新感覺派の驍將と呼ばれた橫光利一であるが、彼は對立や競爭關 係にあったプロレタリア文學を單純に無視したのではなく、マルクス主義經濟 學への理解の上で創作活動をしていたのではないか。このような分析を通じ て、本稿は旣存の文學史的圖式へ些細な、しかし重要な視角を提示した。

탈경계적 상상력: 다자이 문학과 헤테로토피아 -『인간실격(人間失格)』을 중심으로

신현선 ( Shin Hyun-seon )
한국일어일문학회|일어일문학연구  102권 2호, 2017 pp. 171-190 ( 총 20 pages)
5,500
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本硏究では、脫境界的想像力を通して太宰治文學に現れたヘテロトピアの樣相を究明したいと思う。このために、ヘテロトピアを提案したフ一コ一の空間理論を適用して太宰の「人間失格」に現れた空間と登場人物とのダイナミックな關係を追跡し、その特徵を分析する。 自分だけの反空間(オルタナティブスペ一ス)を見つける過程は、生活の空間と死の空間を通過し、現實と接している。その隙間から水平·垂直的空間擴張を通してヘテロトピ生させている。 特に主人公の葉藏は自分だけの特定空間を背景にユ一トピアとディストピアの境界を越えて逸脫と再生を夢見ているが、こうした交涉と葛藤の關係の中で、それらが共存する樣相をヘテロトピアの觀点で分析し、新しい解釋を試みる。これは作品に現れたヘテロトピアの脫境界性を究明することで、太宰文學に新しい意味を付與するものである。
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