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일어일문학연구검색

Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 25권 0호 (1994)

일본지명에 반영된 백제계 차용어 「 Ki ( 성 (城) ) 」 에 대하여

이종철(Jong Cheol Lee)
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日本地名を調べて見ると三國系語源だと推定されるのが相當に多い. 本稿ではその中で「Ki(城)」だけを論議の對象とした. 現在日本地名表記資料で見れば城を漢字語そのまま音讀して「ジョウ」とよむ地名もありそれを訓讀して「しろ」とよむ地名もあるし「き」と讀む地名も多い. 前ニ者の場合では日本式音讀か, 訓讀であるが, 後一者の場合では百濟系借用語と推定される. 日本古語辭典では「城」の意味を表す「Ki」と言う言葉は大低 $quot;しろ$quot; の古代語だと解釋しているだけで,「Ki」の語源に對しては言及していない. 丸山林平平(1967)はその語源に對して敵の攻聲を防ぐ爲に石のへいを築き內と外を區畵した所 郞ち「限り」でその「Ki」の語源を探した. 李基文(1961), 大野晋(1974)だけが「Ki(城)」は百濟語らしいと言った. 筆者はもし$quot;山城$quot;を築城する技術文化が百濟から日本へ傳授したと言えばその築城技術文化と共にその技術者達も渡日されてその實物(城)に對する名稱たる「Ki(城」と言うことばまでも同時に渡っただろうとその可能性も否定出來ないと思われる. そのわけは當時百濟では城を意味することばに「Ki(己·只)」という音借字を借用した문증が三國史記地理志卷36の中に表われている. 新羅第35代景德王時代に昔の百濟地名と高句麗地名を全部漢字語で`改新した事實がある. 卽ち本來の百濟地名なる `悅己縣` を `悅城縣`とよび又本來の `結己郡` を `潔城郡`と. そして `奴期只縣` を `儒城縣` 等と改新したがここで百濟語が「Ki(己·只)」が漢字語の $quot;城$quot; に對應しているのを見受けられる. 日本側地名表記資料では $quot;城$quot; を現すことばに音판假名[Ki(歸·基·紀·貴)]が對應關係の借用例だと見受けられる. それから[Ki(城)」の用子例は日本地名では勿論, 日本上代文獻資料-推古朝遺文·古事記·日本書紀·万葉集歌等でも多いに發見される. 播磨國風土記·常陸國風土記·肥前國風土記等でも[Ki(域)]の 用字例が多く見られる. 日本上代語では $quot;城$quot; さ意味する言葉に[Ki(城)」以外に, [Sasi(城)]と言うことばがもう一つある. しかし[Sasi]は(Ki)とは違い, 日本書紀の中でだけその用字例が見受けられるが主に三國關係地名表記の場合特に多く發見された(用例7參照)[Sasi(城)]の語源に對しては松井簡治(1967)·丸山林平(1967)·時枝誠記(1982)·中田祝夫(1983)·中田幸彦(1984)等がすでに古代朝語で推定した事がある. この[Sasi]と言うことばは[Ki]と共に $quot;城$quot; を表すことばだが[Ki]とは異り現在日本地名では用字例が殆ど無く, 他の上代文獻資料でも發見きれなし点でも推定される. 當時日本の借用語にも受容できない, [Ki]とは軌を異にするのだと推定される. この[Sasi(城)]は新羅鄕歌では[城(자시)]と言う用例が使われる点でも見られ, 古代新羅語(用例8參照)で中世韓國語(用例9參照)に至るまでその命脈を維持した事だが 近代韓國語に入り漢字語の[Seong(城)]に追われそれに代わる新羅語系だと思われる. 依って[Ki(城)]だけが 日本地名に反映された百濟系 借用語だと推定される.

일본어 접사 (接辭) " 적 (的) " 의 성립 및 한국어로의 유입문제 고찰

정영숙(Young Suk Chung)
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本稿は漢子文化圈における語彙交流問題という觀點から接辭 $quot;的$quot; を例として韓·日兩國語の語彙交流問題を考察したものである. 調査の結果, 日本では $quot;的$quot; という漢字語は上代から使われはじめて近世までは ①的確だ, 確かだ ②單語と單語との連結機能 ③人という意味を表わす機能 ④$quot;的$quot; 字句を作って名詞を代替する機能の4つの機能を果していた. 私が調査したところでは本稿で論じようとした接辭 $quot;的$quot; は1873-74年はじめて日本語に登場した. 發生の初期には主に飜譯書で英語の形容詞語尾∼al, ∼tic, ∼sive等の譯語として使われた. この $quot;的$quot; は1881年版『哲學字彙』に多數登錄されてから用例が增加しはじめ, 1880年代の後半 からは小說にも登場してきた. この時から $quot;的$quot; は現代日本語の語彙として定着して行った. 韓國では $quot;的$quot; という語構成要素は朝鮮時代の資料から表われる. この時期の $quot;的$quot; は ①的確だ, 確かだ ②單語と單語との連結機能 ③$quot;的$quot; 字句を作って名詞を代替する機能の3つの機能を果している. 本稿で論じようとした接辭 $quot;的$quot; は1896年にはじめて, 在日本留學生會によって編纂された『親睦會會報」に登場した. この1896年は日本の1872-73年より遲れた時期であり, 同雜誌が日本留學生によって書かれたという点から $quot;的$quot; が日本から流入したと見た. $quot;的$quot; は1900年後半 からは『少年』等の雜誌の評論部分に 多數使われはじめ1910年代からは評論だけでなく小說, 隨筆, 詩等にも使われるようになった. この頃に $quot;的$quot; は現代韓國語の語彙として定着して行く.

선형구구조문법 (線形句構造文法)의 일본어 분석

이덕배(Deok Bae Lee)
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從來なされてきた連體修飾語の位置燮位について槪觀し, それに基づいて, 合成的な連語「(用言)+名詞1+の+(用言)+名詞2」の形において, 主に; ·基本的な語順の存否 ·ある語が他のどのような語と結びつき得るか, といぅ語と語の意味關係という觀點から, 連體修飾語が重なる場合の相互位置燮位について, 再考察してみた. その結果を表にまとめてみると, 次のようになる.

일본어 담화문의 모사표현 (模寫表現)의 형태분류에 의한 의미고찰

박청국(Chung Kuk Park)
한국일어일문학회|일어일문학연구  25권 0호, 1994 pp. 111-137 ( 총 27 pages)
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なぞる表現とは談話の中で相手から言われた表現をそのまままたは意味は同じであるが形が變更された表現でくりかえす言葉として定義する. 此のなぞる表現は單純なおうむがえしではなく相手の表現を利用して自分の 感情を表わす談話の手段である. なお 單純な形をしているように思われる形態は同形と異形に大別される. 同形の表現はなぞる表現者の情報の新舊の判斷により「名詞のなぞる表現」と「用言のなぞる表現に分類されるしさらに「名詞のなぞる表現」は「N+Φ」と「N+P」表現に分類することができる. 異形の表現はいろいろな特機によって「部分變換」と「全面變換」に分けることができる. 以上の多樣な形態的な分類にもかかわらず發話の原理においてはいくつかの共通点が見られる. 主な共通点としては「自已中心的發話」「表現の縮約」「連想語による發話」などか拳げられる.

개화기 일본어 학습서 소고

한중선(Jung Seon Han)
한국일어일문학회|일어일문학연구  25권 0호, 1994 pp. 139-168 ( 총 30 pages)
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韓國の開化期(1876-1910)には日本語の重要性が日日增大したので, はじめは日本人による韓國人を對象とした日本語學習書が次次に出てきた. また韓國近代敎育が本格的にスタ-トしたと言える甲午改革以降の日本語敎育は諸諸 の要素が絡み合いながら展開された. このような時期の日本語敎育の實態はいかなるものであったのだろうか, なお一般國民は日本語をどのような書物をもって日本語を學習してきたのだろうか, また日本語はどのように敎えられていたのかなどを實證的に究明するためには, まずその當時の資料の蒐集と整理が行われていなければならない. そこで, 本稿では韓國の開化期における日本語の學習書を調べて整理したのである. 本稿では學習書を韓日兩國語學習書·文法書·會話書·一般學習書·敎科書にわけて, 次のようなものを中心に槪觀した. o 國分國夫(1893.10),『日韓通話』, 東京 : 東京築地活版製造社(印刷) o 李鳳雲 境益太郎(1895.06),『單語連結日話朝寯』, 京城 : 漠城新報社(印刷) o 日語雜誌社(1906.07),『日韓會話辭典』, 京城 : 日語雜誌社 o 崔在翊(1906. 11),『普通日本語典』, 漢城 : 日韓圖書印刷株式會社 o 學部編纂(1907. 02∼1908. 03),『日語讀本』(券一∼八), 京城 : 大倉書店(印刷) o 姉原治郎(1907. 05),『日韓いろは辭典」, 東京 : 東邦協會 o 鄭雲復(1907. 09),『獨習日語正則』, 皇城 : 廣學書鋪 o 林圭(1909. 12),『日文譯法』(上), 漠城 : 新文館 o 宋憲奭(1909. 06),『初等自解日語文典』, 皇城 : 廣學書鋪 o 朴重華(1909. 02),「精選日語大海』, 京城 : 朝鮮圖書籍株式會社 o 林圭(1909. 12),『日本語學音·語篇』, 東京 : 以文社 o 所初太郎編(1909. 12),『日語敎科書』( 醫學科第一學年用), 京城 : 大韓醫院 o 朴重華(1910. 04),『高等日文讀本』(卷一·二), 京城 : 光東書局 o 南宮濬(1910. 08),『日語正編』, 京城 : 唯-書館 この時代には日本人のための韓國語學習書が多く出版し始めた. 年表にはこれらを含めて作成した. この外國語としての日本語は 1910年8月日韓倂合後, 日本語は「國語」となり, 多くの日本語學習書がでてくる. これからの硏究課題として開化期にとどまらずこれらをも蒐集整理しようと思う.

" 태평기 " 를 어떻게 읽을 것인가에 관한 일고찰

장영철(Young Chul Jang)
한국일어일문학회|일어일문학연구  25권 0호, 1994 pp. 169-205 ( 총 37 pages)
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『太平記』の主題的動機は序文に始まって本文の全體に及んでいる. その內容は儒敎的君臣論を問題意識の前提とし, 本文にも登場人物と語り手の發言を通じて大義名分論·仁義論などの形で數次繰り返している. にもかかわらず, 君臣論の理想は大體の『太平記』の登場人物には守られず, 各各の階層の價値混亂のあげく解決の緖が見られないままである. 特に,『太平記』當時の一般的世態は目の前の利益に沒頭する姿に映っていて, 序文及び本文で提げられた幾つかの原則論は自體の一貫性にも拘れらず, その限界を呈してしまうのである. 君臣論の前提の元で『太平記』の語り手は批評文を通して人物評價と事件の意昧づけき試みている. 殊に, 批評文は當時の世論を判斷の根據にしているように見え, 嚴しい原則論の理想を現實的次元に引き下げて價値判斷を下している. その上『太平記』の落首は主に下層階級の批判的な輿論を傳達するようにして歷史の一斷面を浮き彫りにしている. 『太平記』の故事譚は印度·中國·日本の三國に關連する過去の出來事を含んでいる. 印度關連の故事譚はすべてが佛敎說話で, 中國關連の故事譚は中國の過去の歷史と人物を扱っているが, 兩者共に主體的側面での敎訓を得ようとしている. 一方, 日本關連の故事譚は日本の過去の先例とか由來を通して『太平記』の現在の狀況を說明しようとしている. したがって, 『太平記』の故事譚は單純な過去の話しではなく, 敎訓性あるいは背景性を確保している点で主題面の補充的機能を단っている. 軍記物語の特質として,『太平記』の合戰譚は著しい方向性を見せている. 楠正成などによる多樣な戰術, 神武器, 兵力數, 猛烈な戰鬪描寫には『太平記』獨特の誇張性が目立つ. 北條家門と主な武家一族の集團自害, 血に塗れた戰鬪場面を通しては殘忍性が現われる. 各各の戰鬪場面を設定していく手法として先行の軍記を眞似るか脚色することによって衒學性が見られる. 決して模範になれない武士たちを選擇的にパロディ-化しては滑稽性の效果を得ている. こういう点などが他の軍記物語と區別される『太平記』合戰譚の特色である. 『太平記』の予言譚·靈魂譚·懷古譚は故事譚と共に一種の揷入譚である. が,『太平記』の子言譚·靈魂譚·懷古譚は故事譚と違って,『太平記』の登場人物の運命と事件の推移に直接的な連關を持っている. 本槁では作品の現實世界に直に關與した主體が誰かによって予言譚·靈魂譚·懷古譚を區別した.『太平記』の予言譚は視空間の制約を受けない超越的存在が予言または兆しを下して話しの現在を導いていく. 靈魂譚は登場人物の怨靈あるいは祈りや呪いなどによって現實的效果が現われる. 懷古譚は登場人物の過去を振り返って理解と同情が求められる.『太平記』の予言譚は夢·神託·未來記·妖怪などを通じて現われ, 靈魂譚は主に南朝に屬した登場人物の靈魂譚の復響譚になっていて, 懷古譚は悲戀と出家の內容が大部分@占めている点などが特記できる. く三部構成說)と關連しては, 第三部あるいは第二部以下においての『太平記』の作品性低下が故事譚·予言譚·靈@譚·懷古譚などの密集度とはあまり大きな相關關係を持っていないことを, 全倦に渡る均一的な分布が證明していのである.
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『平家物語』で發見できたような戰場と非戰場という空間による死生觀の差異は,『太平記』にも一應存在するものと判斷される. 戰場では武勇の精神と怨みが强調されるあまり切腹が盛行し, 死後までも主君のため忠誠を盡して, 敵を滅ぼしたいという怨念の死が稱えられてかるが,非戰場ではおも臨終正念が要求されているからである. しかし『太平記』にはもう一つの類型性が發見される. 卽ち, 壤滅的な戰死, 神罰かうの死の敍述は南朝方(官方)に對抗して戰う敵側に限っているだけで, 宮方の方がこのような死をやされるような敍述は見られないこと, そして宮方の武將の怨念が浮き彫りされていること等が類型的的な特徵として指摘できる. このような敍述には皇統の神權力を主張するための意圖が窺われる. そのような背景から敗北した官方の怨靈が足利武家の內粉紛を畵策するという怨靈譚にもつながっていく構造となっている. 卽ち, 후제호천황の崩御の時の惡相により, この世の混亂がもたらされたという論理で, その結果, 非戰場ですら臨終正念と家族の供養も不可能な殺伐とした環境を敍述し, 怨靈をぼのめかしている.『平家物語』でも安德德帝の死を巡って混亂が敍述されているが, 健禮門院の役割等で安德帝を初めとする平家一門が自ら往生に至るとの論理であるのに對し,『太平記』は皇統の怨靈を强調することにより, 國家的な鎭魂儀禮の必要性が一層强調される. そのような背景から死後供養を否定する者は大いに非難されているものと考えられる. 一方, 民間被害の描寫においても差別は見られる. 在家の被害には何の論評もないのに對し, 寺社への掠奪, 放火に對しては大いに非難し, それを敗亡の兆としている. 以上のような『太平記』の死の敍述, その類型性と差別性等から, この作品の執筆意圖が窺われる. 卽ち, 武家の世を認めながらも, 新しく勸力を握って軍雄割拒する武士階級に皇統の怨靈を認識させ, その鎭魂を擔當する佛敎界の役割を强調することにより, 國家の秩序體系として位置してきた王法と佛法の存續を圖ろうとしたものと考えうれる.
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兼好の主著である『徒然草」を讀んでみると, 兼好の目は人間に非常に多く注がれている. そのうち, 兼好が特に關心と興味を持って觀照しているのは, 入間的感情と慾忘に補われて, 暫らくも「心」を安靜に保つことのできない「愚かなる人」であろう. 兼好はそのような人人を銳い目で見つめながら, 色色の角度から入間の「心」のあり方を訓えつつ, その爲すべきことを提示している. 兼好の戒めを整理してみると, 第一に, たとえ爲りであっても, 善を傲い聖の訓えに耳を傾ける. 第二に, 世は無常であるという理と已を知る. 第三に, 無常の到來は速やかで, しかも老若を間わず襲ってくるということを心に刻みつける. 第四に, 諸緣を拾てて閑かに修行できる境地に身をおく. 第五に, 專ら佛道修行に勵むなど, 五段階にまとめられる. 要するに, 兼好の『徒然草』は彼自身の自省を行いつつ, 特に愚かな心の持ち主の人間としての道程や道念を觸發させる故に, 形式に拘ることなく, 自我發見 無常迅速諸緣放下 心身閑處 佛道修行への「道」をれかリやすく說いた人間の書とも佛書ともぃえる.
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숲속의 큰늪 근처에 있는 幻想的異空間에서 어린 소년이 죽은 엄마와 닮은 여자를 만나, 하루밤 안겨 잘 수가 있었다라고 하는, 누에고치 속에 감싸여진 듯한 경험, 중이면서도 보통 세속의 남성과 같이 사랑의 완성에는 다다를 수가 없었지만 꿈과 같은 체험을 하고, 헤어지고 나서도 번뇌 속에 빠지고 말아 겨우 解脫할 수가 있었다는 이야기, 강물에 빠질 뻔했을 때 천상에 있는 아름다운 날개가 달린 化烏에 구조돼 받은 적이 있는데, 그것은 어머니가 아니었을까 라고 생각한 소년이 엄마의 사랑을 재확인한 것, 유령과 사랑을 한 청년의 사랑의 모습을 夢幻能의 형식으로 法師와 讀者에게 그려 보인 것과 도깨비를 종류별로 나타내 보인 幻覺의 世界를 鏡花가 의식하여 구성한 異空間에서 나타냈다. 異공간을 憤憬의 境地로 하고 또 이 세상과는 윤리관이 다른 것으로 設定하여 엄마를 구하는 사랑과 異性을 그리는 사랑 등 인간의 본질적인 문제를 多面的인 虛構하에 物語를 구성하여, 이世上에서 異空間까지 넓혀갔던 것이다.
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