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일어일문학연구검색

Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 28권 0호 (1996)

일본문학연구의 방향성 ( 日本文學硏究の方向性 )

(Nakada Takeshi)
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「 お ~ です ( 오 ~ 데스 ) 」 형의 문법적성격 ( 「 お ~ です 」 形の文法的性格 )

노현송(Hyun Song Ro)
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종래의 경어교육 관련서적이나 경어 안내서적 등의 성분부가형 존경어에 대한 기술을 보면, 주로「お∼です」형식이 중심으로 되어 있고,「お∼になる」형식에 대해서는 일상생활에 널리 사용되고 있음에도 불구하고, 그다지 적극적으로 언급되지 않고 있는 실정이다. 간혹 언급되는 경우에도, 「お∼です」형식이 지니고 있는 문법적 성격을 충분히 고려한 설명이 아니라, 단순히 「お∼になる」형식과 상호변환이 가능한 형식 정도로 기술되어 있는 것이 보통이다. 「お∼です」형식이 바르게 사용되기 위해서는, 이 형식이 지니고 있는 문법적 성격에 관한 연구가 선행되어야 할 것으로 생각되어, 본고에서는 이 「お∼です」형식이 어떠한 문법적 성격을 지니고 있는가에 대해 고찰해 본 것이다. 그 결과, 「お∼です」 형식은, 어형적으로는 나타나지 않지만, 그 내부에는 Aspect성을 나타내는「∼ている」나 완료를 나타내는「∼た」의 의미를 포함하고 있어, 보통문 또는 「お∼になる」형식의 문을「お∼です」형식의 존경어문으로 변환하기 위해서는, 기본적으로 각각의 문이「∼ている」나「∼た」의 형태를 취하고 있어야 한다는 것을 알 수 있었다. 그러나, 이러한 조건을 충족시키고 있다 할지라도, 문 내부의 다양한 문법적 제약, 예를 들면, Aspect의 제약, Tense의 제약, Voice의 제약, Modality의 제약 등에 의해, 「お∼です」형식으로 변환할 수 없는 경우가 있음이 확인되었다. 이와 같이,「お∼です」형식은 외형적으로 보이지 않는 복잡한 문법적 성격을 지니고 있어, 단순히 「お∼になる」형식과 상호변환이 가능한 형식으로 취급되는데 그쳐서는 안될 것이다.

단군신화가 일본신도 수험도 (修驗道)에 끼친 영향에 관한 연구

윤경수(Kyung Soo Yoon),김문길(Moon Gil Kim)
한국일어일문학회|일어일문학연구  28권 0호, 1996 pp. 69-115 ( 총 47 pages)
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「家庭の幸福』,『櫻桃」, この二つの作品で共通もた特性は主人公らがおそろしいところ見做している現實を生きて行く主人公たちの考えと行動の不一致の要素が時間の流れるほど元來の意圖とは違う主人公の言行不一致のせいで作品をあきあきさせる要素として作用し, たびたび讀者を食傷させる原因でもある. それがこの二つの小說で構造的ど矛盾で表われる誇張表現の濫發であり, 主人公が求めている正義と眞理さがしの過程で現われる僞善と虛像であった. 矛盾構造を持ってるこの作品群の特徵である文章の誇張, または逆說的な表現のいちばん代表的なものが,『家庭の幸福」では, $lt;家庭の幸福は諸惡の本$gt;と言う表現であり,『櫻桃』では $lt;子供より親が大事$gt;であるという表現などである. そうしながらも作者太宰治, あるいは主人公らは自身の狀況が少しでも不利に展開されると, 卽ち, 作品がもっと興味を誘發させることができない場合, 誇張された表現と逆說的な矛盾構造で, 讀者に哀願する呼訴策として, 依然として世の中をおそろしぃところと見做し, 甘ったれながら作品を導びくのである. しかし, そのような矛盾点のぁる設定にもかかわらず, 解讀法は作品の興味の誘發の手段として作用される点でとらえるべきで, このような硏究が各作品の正しい讀みに何よりも重要な要素であることは違ぃなぃと言えるだろう.
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本稿は「今昔」の船僑家本「孝子傳』受容についての「傳承」方法を, 孝養と考いう語と, 孝養譚の構造と表現の兩面から考察したものである. 震旦部の孝養譚は話群全體の話性轉換が試みられた唯一の例であり, 孝養という語をもって佛法的性格を備えさせようとしたことは「傳承」方法の創意として評價されるが, 反面, 話の內容からみるとその意圖に合致するところまでは改變できていない. その點は「傳承」方法の限界として指摘される. また構造と表現においても, 船橋家本『孝子傳』の地の文を會話文に燮えるなど,『今昔」は原典の內容を損なわない限りでの最大限の創意を發揮するが, 定型反複表現に依存する限界も內包していることが分かった. このような『今昔」の「傳承」方法に現われた創意と限界の拮抗現象が,「今昔』という作品の本質に內在されているといえよう.

만엽집 (万葉集) , 권 13 상문 (卷十三相聞)에 있어서의 지명가의 양상

성기연(Gee Yeon Seoung)
한국일어일문학회|일어일문학연구  28권 0호, 1996 pp. 163-183 ( 총 21 pages)
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卷十三は万葉集のなか傳承歌としての古體の長歌を拾い集めて一卷をなした卷である. このような卷十三の配列のことについては五味保義氏による地名配列說が主になっている. それで本稿はその論を基盤として特に相聞における地名歌の樣相をとおして配列のことを考えてみてから卷十三の編者意識にせまっていこうと思う. その際, 硏究對象としては特に相聞の長歌を對象とするが, それは部立のなか相聞の場合, 他の部立と比べて地名の必要性をあまり持っていないにもかかわらず卷十三の相聞は特に地名がたくさんでてくるからである. そして長歌だけを硏究對象としたのは卷十三は長歌と短歌の成立において, 內容的に合わないということなど問題点が多いからである. 以上を硏究した結果, 卷十三の相聞は男女の戀を主題として地名を意圖的に使って戀を表現しているのがわかった. すなわち, 地名歌はある地名をとおして戀をいろんな角度で象徵的に描いている. それも大地名と小地名に分けて, 大地名によっては逆接の表現で戀の存在意識を大きくとらえ, 小地名によっては順接の同格の表現で自分の內部の戀の樣子と狀態を描いている. そして無地名歌は地名歌と同じ趣によって緊密な關係を保ちながらつながっている. このような部立の構成法は, 歌の感動の效果の面からみても實用的だと言える. すなわち, 地名歌では地名によって戀を象徵的に描き, 無地名歌によってはその戀をもっと具體的に描いているからその戀の心を十分表現できるのである. 以上のように卷十三·相聞の地名とそれによる配列はその部立の性格をもっと生かすという編者意識から出發した編者の工夫によるものだと考えられるのである.

서술의 진위 (眞僞)를 통해 본 「 지옥변 (地獄變) 」 의 세계

신은주(Eun Ju Shin)
한국일어일문학회|일어일문학연구  28권 0호, 1996 pp. 185-210 ( 총 26 pages)
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「地獄變」は「戱作三味」とともに芥川の藝術至上主義藝術觀を表した作品として有名である. 從來の硏究をごく組く槪括してみると,「地獄變」の物語の骨格を良秀を中心に考え, 藝術と權力, 藝術と人生·道德の對立葛藤を作品の主題とするのは共通しているが, 良秀の死をめぐつては解釋·評價が分ガれている. つまり, 良秀の死を藝術至上の挫折·敗北とみるか, あそいはその反對に藝術の勝利·絶對化とみるかがそれである. しかし兩說とも「地獄變」の物語を, 自分の一人娘を犧牲にしてまで藝術の完成を期する藝術家の魂を描いた作品とする点は同じである. もちろんこのような解釋の背景には, 芥川自ら表明している文學觀-藝術家は非凡な作品を作る爲に, 魂を惡魔に賣渡す事も, 時と場合ではやり兼ねない(「藝術その他」)-が索引とされていることは言うまでもない. しかしこのような良秀像の通念は, 地獄變物語に對する語り手自身の理解の領域內のものに過ぎない.「地獄變」の語り手は, 屛風繪制作にまつわる顚末をすべて見聞きしているにもかかわらず, 事件の眞實を微妙に隱しているし, 良秀·娘·大殿の心中を察するにも自らの限界を隱さない. つまり, ナレ-タ一としての客觀性·信賴性に欠ているのである. このような觀点から本稿では, 語り手の性格, 語りのニ重性に注目して物語のまの裏を探り,「地獄變」の作品世界の再檢討を試みると同時に, 芥川のいゎゅる藝術至上主義文學觀の實體に迫ろうとしたものである. 語りのニ重性に注目すると, 地獄變物語の事件は他ならぬ良秀の娘を中心に進行していることが確認できる. 良秀の夢は地獄屛風畵の制作にまつわる不安と娘の死を予告する恐怖が夢になつて現われたものであり, こうした葛藤や苦惱を通じて상게の焚死圖が着想されたのである. つまり良秀にとつて, 地獄變相圖の世界は彼の現實の善惱が純絆化され藝術化された世界であり, 빈랑모の車の炎上と상게の焚死の圖は, 娘の藝術約表象を意味するものであつた. 良秀は$lt;醜いものの美しさ$gt;を追求する自分の畵法の完成を通じて娘の凄慘な運命を救いだす決意をしたのであり, 良秀の淚は, こうした決意が成されるまでの, 藝術家としての父としての狂氣と正氣, 精神と肉體, 超越と日常の葛藤 ·戰いを意味するものとみるべきであろう. 藝術家としての精神と情熱を完全に燃燒した良秀にとつて, 肉體だけの生存は無意味であろう. その意味で良秀の死は自然死のようなものであると解釋したい. 「地獄變」の良秀は, 藝術か人生かという二者擇一の意味での藝術至上主義者ではなかつた. というのは, 良秀と娘の死は繪の完成のために撑げられたとばかりは見られないほど. 良秀の苦惱には現實の娘の運命に起因する部分があまりにも多いからである. しかしこのような藝術と人生との絶え間ない懷疑と葛藤こそ, かえつて芥川文學をより多彩にしていることは言うまでもない. 單に懷疑主義者芥川の藝術至上の限界と言い切れない所以である. 文學を倫理的にあるいは人生論風にとらえる當時の文壇にかいて芥川は, 表現を重視し作品の完成度を高めるために作家は努力しなければならないと主張し, これを實踐した. つまり, 芥川の反自然主義文學觀とは, 文學とは實生活の記錄や告白という人生論ではなく, 意識や心理など, 樣樣な生に對する認識を, それにふさわしい表現によつて作り上げた藝術である, ということであつたと私は考える. つまり芥川の藝術至上主義文學觀は藝術に對する信念や熱情という心情的側面よりは, 高度の表現方法を摸索する表現者としての意識という側面から生まれたものであると理解すべきであろう.「地樣變」でのニ重の語りは, 文學は表現藝術であるとする芥川の文學觀を裏付ける, 效果的な裝置であつたのである.

다자이 오사무 (太宰治)의 「 혹떼기 (瘤取リ) 」 론 - 번안소설에 관한 연구

어흥선(Heung Sun Eu)
한국일어일문학회|일어일문학연구  28권 0호, 1996 pp. 211-234 ( 총 24 pages)
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太宰治の「瘤取リ」は「伽草紙」(1945.5.10.筑摩書房)に收められた作品である,「瘤取り」の話は, 太宰が作中で觸れているように『宇治拾遺物語」の中に「鬼に瘤とらるる事」の說話がある.『宇治拾遺物語」(以下『說話』と略す)は, 最後の「ものうらやみはせまじき事なりとか」という敎訓から, $quot;瘤を取つてもらつた爺さんが隣の爺さんを羨んだ報いとしての惡い結果, という因果應報性が極めて强い$quot; とか, $quot;善人惡人についての結果話$quot; であるものとして知られている. よく, お伽話といえば,「因果應報」の物語というイメ-ジになりがちである. しかし,『說話』の結未が「ものうらやみはせまじき事なりとか」というぶうになつているからといつて, 必ずしも$quot;因果應報$quot;の物語といえるだろうか.「瘤取り」物語は元元この『說話』の話を利用しながら, 太宰獨自の解釋を興えた. 太宰が 『宇治拾遺物語』性質をどのように活用して, どのような「別個の物語」をかもしだしたか, を調べてみることがこの論文の目的である.『字治拾遺物語」では, 二人のお爺さんが生まれつきの `才能` の問題が現れているのである. そこには, 物羨やみの因果應報的要素はややあるとしても, 欲の問題ではなく, 二人の爺さんを`才能`の有無によつて幸不幸が分けうれてしまうのである. それに對して, 太宰はそれぞれの人の `性格` が生んだ「喜悲劇」という問題を提示しているのである. 太宰が用いている意味は, 所謂感情的傾向とか特殊な心理的性質などという類の「性格」ではなく, 人間存在を規定している宿命的な業にも似た, 不可避な生きざまとしての `性格` である. 太宰の「瘤取り」には『說話』が持つ性質, つまり善惡をめぐる因果應報ではないという点が, 巧みに生かされているのである. それは, 關係の中で無意識に人を傷つけたり, 傷つけられたりする情況に對して `性格の喜悲劇` というまため方をしたのである. 性格自體を特別注目しているのではない. `性格の喜悲劇` というまとめ方の裏面には一人一人は惡くないし, また, その家庭も惡くないが, それが人間と人間との `關係` の中に入ると悲劇になるということである. お伽話を利用して, それによりかかる形で, 切り返すいうやり方ができたのは, 飜案という在り方を除いてはは考えられないのではないか.
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