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Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 47권 2호 (2003)

『기,기』에 나타난 도래인 연구 - 진씨를 중심으로 -

이창수 ( Lee Chang Su )
6,200
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いわゆる「渡來人」とかえば、中國や朝鮮半島から來た者あるいは集團を限定して言う印象が强い。特に朝鮮半島から渡來渡した人??が特別視されている理由は、朝鮮半島から「渡來人」が量的な面から見て、他地域に比べ壓倒的に多數を占めていることと、日本古代史における活躍が目立ったからであろう。しかし、外國または外地から日本に移動し、そのまま定住し、數世代を經ながら日本人化した人ならすべて「渡來人」の範疇のなかに人れるべきであろう。「記·紀」には、彼らの活躍が共通的に記述されている。そのうち、渡來集團の雄族であり、朝廷においても重要な存在だった秦氏にする記事とその活躍は「渡來人」の性格を規定する重要な手がかりになっており、すぞに多くの硏究成果をも殘している。本稿では「記·紀」に登場する渡來記事を中心にその實狀といわゆる「渡來」の意味を探り、かつ朝鮮半島との關連性を考察するのが目的である。 「記·紀」における「渡來人」とは、何かの事由によって朝鮮半島から日本列島に渡海し、定着しながら日本人に同化された者を意味する。量的な面から、主に朝鮮半島からの「渡來人」に關しての記事が壓倒的に多いとしぅことが分かる。また、朝鮮半島からの「渡來人」に對してあるいは彼らの役割と活躍については極めて肯定的に記述されていることが分かる。それは彼らが日本古代社會において文化面あるいは技述面で多大な貢獻を果たしたことを反映していることである。 一方、「記·紀」に現われている秦氏はついては,大藏との深い關わりを持つなど、財政的·政治的にも非常に重要な存在だったことを傳えている。また、新羅との外交的な業務も擔當したことも見られ、朝鮮半島との深い關連性がうかがえる。さらに、文化的な敎養を備えている古代エリ-トとして描かれていることが分かる。 最後に、「記·紀」には、秦氏は諸國の同族である渡來氏族を統率した記錄がある。これは全國に廣がる「アメノヒボコ」傳承と深く關わっていることを示唆する。以上のように「記·紀」に秦氏の傳承が間欠的でありながら多く混入していることから、「記·紀」作成に彼らの少なくない影響がうかがえる。

『이상산부』의 창작동기

박상현 ( Park Sang Hyeon )
5,900
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天平十八年(七四六)三月に宮內少輔となったばかりの大伴家持は、それから間もない同年六月二一日、越中國守に任命された。家持にとっては最初の地方官轉出である。そして、結果的に約五年間越中で生活するようになるが、いわゆる家持の越中時代と稱されるのがの時期である。 越中へ赴任は左遷ではなかったものの、喜ばしいことではなかったであろう。妻子を京に殘して、奈良から遠く離れた僻地へ行かなければならなかったからである。また、越中の風土が奈良にとは相當異なったからである。こうしち越中の風土にする家持の不滿は、万葉集に殘されている。それで、先行硏究者は家持か越中時代にいつも望鄕の念をいだいて、越中での生活には積極的ではなかったと指摘してきた。家持の越中時代に對するこのような見方は、一見妥當のように見える。しかしながら、越中全時期において家持は越中で生活に後向きだったのであろうか。 本稿では「二上山賦」((17)三九八五~八七)の創作動氣を明らかにして、次のような結論にたどりついた。 越中赴任早??、書持の死とともに、重病も體驗し、意氣銷沈していた家持は、池主との文藝的交流(天平十九年<七四七>이월二九日から三月五日にかけて行なわれた)や立夏の到來によって、一つの轉機を迎えたと考えられる。そして、なかなかなじみにくかったはずの越中(=「天離る鄙」)での生活に以前よりは前向きになったと推測される。そして、それによって發見されたのが、以前には本格的に創作の對象にはなれなかった越中の風土である。すなわ、二上山だったのではないか。そして、家持は精的支柱だる二上山を讚美する作品、「二上山賦」を制作した。その意味で、、「二上山賦」は家持が越中での生活にようやく適應するようになったことを宣言しているような作品だったのではないか、と考えられる。したがって、越中全時期にわたって、越中での生活に家持は後向きだったという通說には從いがたい。

『일본영이기』의 명계관 - 선대 중국설화집의 영향을 중심으로 -

이시준 ( Lee Si Jun )
6,100
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『冥報記』に大きな影響を受けている『靈異記』には計16の冥界譚が收錄されている。本稿の目的は『靈異記』と『冥報記』を比較しながら、『靈異記』の冥界譚の特徵を浮彫りにすることある。まず、冥界譚の一般的な話型を提示し、『靈異記』と『冥報記』の兩說話をここに適應させ、話型による關連話の指定に客觀性を期した。具體的なモチ-フや思想などに關しては「物乞いの冥鬼」と「善業と惡業の輕重を量る方法」が兩書で共通的であって、『靈異記』に及ぼした『冥報記』の影響であろうと推測した。一方、「黃泉の國」「黃조火物」などのように『靈異記』に上代の他界觀·死靈觀が投影されている点に關しては『靈異記』の冥界觀から古代の思想を直接引き出すのは飛躍であると結論づけた。今後『靈異記』の冥界觀の全貌を明らかにすべく、より多くのモチ-フと內容を對象に『冥報記』との比較を豫定である。

『야수』의 구조

임찬수 ( Im Chan Su )
5,500
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「野守」は野守の鏡という和歌說話を題材にして作られた世阿の晩年の作品である。內容は野守の鏡にまつわる故事が背景になって、野中の溜り水という說と人の心を映す鏡という二つの解釋が展開されている。もとは野中の溜り水を指した詞であろうが、それが人の心を映すとか身體の病の在所を示すという說話に變形發展して傳承されてきたと思われる。歌論書には『俊賴髓腦』をはじめ、『色葉和難集』まで、その說の由來が敍述されているし、中世の日本紀注に載っている神種三器の鏡に關する說話まで引用したりする。特に『紀語抄』に「日本紀に委はあり」とか『色葉和難集』に「口決云く」という文句は、中世の日本紀注を暗示する表現である。それは、野守の鏡の說話が和歌世界だけでなく、すでに散文文學にも廣く傳承されてきたことを示す證據である。和歌には、野守の鏡を野中の溜り水という意味よりも人の心を映すというものに受けとる傾向が强い。 本曲には「碎動風」という鬼神の演技が披露されている。世阿彌の能樂論によると、鬼神演技には「碎動風」と「力動風」とが存在するが、彼の流派には「碎動風」しか演じていないと斷言した。「碎動風」とは、形は鬼神であるが、人間の心を持つ鬼神演技を指すもので、幽玄という美意識と關連づけて考えるべきものであろう。優艶でありながら姿を幽玄と考えた世阿彌は、力あって荒っぽい動作の鬼神演技、つまり「力動風」の演技は、彼が追求した美意識に似合わなかったかも知れない。鬼神でありながら人間の心情を持つ鬼神演技は、優しくて美しく見せながらも鬼神であることを觀客にわかってもらうように演じるテクニック、これが「碎動風」の本質であるし、世阿彌が主張する美意識の發露でもあろう。 本曲の最後に鬼神が봉から鏡を持って來て、天上と地下世界を悉く見せ、「さてこて鬼神に、橫道を正す、明鏡の寶なれ」といいながら落に歸る部分は、鬼神と鏡を一體とする觀点からの表現であるといえよう。この文章は、鬼神は橫道を正す鏡だと解釋できる。言い換えれば、鬼神=鏡という圖式が立てる。日本紀注には、野守の鏡は人間の罪業と映す淨파리の鏡として描かれていて、この鏡は閻魔法王が所持しているものとして、地獄の有り樣を외無く映し、人間の罪や業障、そして善惡は勿論、人間の過去と未來も眞ん丸映すものとなっている。日本紀と關連づけて考えると、鬼神=鏡、閻魔法王=淨파리の鏡、鏡=閻魔法王となる圖式が立てられる謠曲の構造である。

『우진보물어』의 <송풍>

류정선 ( Lyu Jeong Seon )
5,900
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「琴の音」を示す歌ことば<松風>は、中國の漢詩の影響によって和歌の世界へと定着する。詩語から歌ことばへという<松風>の現現史の流れのなかで、「琴の音」=<松風>という記號化の過程には、詩から和歌へ、また、和歌から詩へという相互作用が重要な位置を示している。そして、「琴の音」=<松風>の記號化は、物語の世界にも取り입まれ、<音樂を語る物語>といえる『宇津保物語』や『源氏物語』の重要な素材にもなってぃる。 本稿では、『新撰万葉集』の系統を踏まえている傾向が强い『宇津保物語』の『松風』を通して、<琴の物語>を考察し、その延長線として『源氏物語』との關連性を追究してみた。 『宇津保物語』における<松風>の歌と和·漢の架け橋の役割を果たとている『新撰万葉集』との關連性からは、『宇津保物語』で詠まれいる歌の世界が漢詩と和歌との搖らぎや結合の過程であることが窺える。そして、その傾向は『宇津保物語』の作者として推定される源順の<松風>歌をめぐる題やそれに關する意識からも讀みとれる。しかも、「順朝臣の庚申夜奉歌序」と、「琴の音」=<松風>の記號化の定着をもたらした齋宮女御の歌との關わりからは、『宇津保物語』と『源氏物語』の<松風>歌の關連性が示されている。もちろん、<松風>という同じモチ-フを、齋宮女御の歌は和風化の傾向を示しており、源順は漢詩的な色彩を强く帶びているが、『源氏物語』の<松風>の歌は、『宇津保物語』との關連性を排除できない。 つまり、齋宮女御の<松風>を踏まえている『源氏物語』の<松風>は『宇津保物語』とは異なる流れにあるが,その引歌や故事を織りまぜた表現法には歌の世界からではなく、『宇津保物語』との關連性からも再檢討すべきである。そこには、和歌の世界とは異なる、物語における<松風>の表現史が語られているはずである。

『청령일기』부터 『원씨물어』에로 - 「백목」과 「사고의 분량」을 지표로 하여 -

이미숙 ( Lee Mi Sug )
한국일어일문학회|일어일문학연구  47권 2호, 2003 pp. 101-125 ( 총 25 pages)
6,500
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『청령日記』と『源氏物語』の密接な影響關係は、文學史においても多く指摘されていることである。本稿は、兩作品の類似場面や敍述、風景や狀況設定における類似性を指摘している先行硏究とは違い、作品內の男女關係の構圖と女性の認識に焦点を合わせ、『源氏物語』における落葉の宮物語の形成に『청령日記』がどのように受容されているのか、その一端を考察してみた。 具體的には、『청령日記』における道綱母と夫である兼家との關係や、『源氏物語』における落葉の宮と柏木·夕霧との關係に注目し、兩作品に共通的に見られる「柏木」と「思はぬかた」といった具體的な表現を指標として考えてみた。 考察の結果、『源氏物語』落葉の宮物語において柏木と落葉の宮との關係を象徵的に表している「柏木と落葉」の構圖は、『청령日記』において兼家と道綱母との關係を象徵的に表している「柏木とした草」の構圖と密接な關わりを持っており、『청령日記』から『源氏物語』に受け繼がれる兩作品の受容關係を窺うことができる。 また、柏木の死後展開される落葉の宮と夕霧との關係は、「のぼりにし峰の煙にたちまじり思はぬかたになびかずもがな」という落葉の宮の和歌に用いられている「思はぬかた」という表現に集約されていると思うが、女性がこの表現をもって、自分の意思に反して生比きざるを得ない身の上を嘆く用法は、旣に『청령日記』から確認することができ、このことを通しても兩作品の密接な關わりの一端が窺えゐ。 要する、『源氏物語』における落葉の宮物語は、後見なき女性の生き難さという主題を、皇女でありながら未亡人である女性の結婚物語を通して具體化したものであり、女の生き難さ、女の身のもてなし方の難しさは、その身分によってその具體的な樣相においては異なる点があろうが、その本質においては同じであることを形象化してあると思われる。そして、落葉の宮物語の形成には、先述したように『청령日記』の表現と男女關係の構圖などの影響が窺われ、これらの点から、兩作品の密接わりの一端が指摘できよう。

평안시대의 귀족의 결혼과 그 소멸

이일숙 ( Lee Il Sug )
한국일어일문학회|일어일문학연구  47권 2호, 2003 pp. 127-142 ( 총 16 pages)
5,600
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平安時代の貴族の結婚は男性が關心のある女性に「懸想文」を送ることから始まるが、これは男性が求婚を意味する「懸想文」を送る前にまず、求婚してもよいかを女性の兩親に打診してからのことであることはあまり知られていないようである。 正式の求婚は、知人や女房など適當な媒を人れ、男性からの求婚だけではなく、女性の方からの求婚の例も多く見られる。結婚の條件としては、家柄や身分が重要な役割をし、女性の場合は容姿も重要視された。兩親が決めた相手が氣に人らない時は拒否したり、兩親の反對が强いときは强制的に女性を連れ出す例もあった。 この時代には、女性の純潔はあまり問題にされず、婚前交涉のある女性が后になったり、后だった人が他の男性と結婚する場合もあった。子供の母親が亡くなったときは、母親の實家で子供を養育するのが一般的だったが、これは一夫多妻制が一要因となる。 女性の承諾で男性は三日間續けて通い、3日目には「ところあらわし」といい、正式に結婚したことを披露する。このとき、女性の家で餠を準備するが、新郞は三つの餠を切らずに食べなければならない仕來たりがあった。 平安時代の結婚は、始めは男性が女性の家に訪ねてくる形態から、複數の妻の中の一人と同居することによって正妻が決定される形態だった。それゆえ、正妻が決まるまで女は苦惱し、夫に積極的に戀を求めたりした。一つの屋根の下に姉妹が住んでいるときは、姉妹にそれぞれの男性が通ってきたので、時には誤解による諍いも發生した。 結婚關係の消滅は、男性の心變りと、兩親の反對、女性の浮氣と心變りなどの理由があリ、男性が通ってこなくなった時点で結婚關係は消滅した。

문부지의 성립-그 문학적 배경

김영 ( Kim Yeong )
한국일어일문학회|일어일문학연구  47권 2호, 2003 pp. 143-155 ( 총 13 pages)
5,300
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文付枝には「引歌の謎による知的ゲ-ムを樂しんでいた當時の平安人の純粹な言葉遊びの世界」が潛んでいたと評されているが、實はコミュニケ-ションという意思傳達を本來の目的とする文付枝のあり方からすれば、必然的に生まれた結果とも言えるのである。卽ち、纖細で豊かな王朝時代の機智と風情を盛り입むためには、より深い表現の內層が必要になってくる。それにつれ、古今集以外の有名な故鄕を引き起こす文付枝が巧く用いられ,より效果的に,そして機智的に、洗練されわう意思傳達を圖るようになるのである。言い換えれぱ、贈り手と愛け手の心理描寫や情況表現などの纖細な心情表現と巧く合致して、文付枝の素材や使い方も巧妙になっていくのである。 しかし、「古今集基盤意識」という大前提は强固に守られ、文付枝の會話的性格を維持していたのである。 このように、文付枝は自然の景物について特定の觀念、特定の心情が結合されたものであるが、その「景物と心情の結合」表現の型が「古今集基盤意識」になるのである。それは『古今集』で用いられている掛詞や緣語などの修辭技法、あるいは見立て·擬人法などの表現技法を多く取り人れ、古今集的表現を受け繼いでいく。 つまり、文付枝の成立過程は特定の『古今集』歌によって、それを受け手に連想させよぅと媚、れたものと贈られたものと、豊富な表現を可能にするため、古今集的表現以外の特定の和歌を連想させようと贈られたものとに大別できると考える。

『후십유집』 연가의 『~인』고 - 이즈미시키부의 노래를 중심으로 -

노선숙 ( No Seon Sug )
한국일어일문학회|일어일문학연구  47권 2호, 2003 pp. 157-176 ( 총 20 pages)
6,000
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本稿では,『後拾遺集』戀歌に見える他者規定の類型と樣相について考察した。228首の戀歌中、他者規定の見られる歌は、21首である。戀歌21首の作家のなかで、和泉式部の6首と、赤染衛門·小辨·中原賴成妻の3首を合わせて4人の女流歌人の歌に9例の「~人」表現が用いられている。これに反して、男性歌人の歌は13首3例に達している。 女流歌人の歌に描かれた他者(戀人)とその人に對する感情表現は,「わが思ふ人-逢ひ見てしがな」「まづかきやりし人-戀しき」「思ひ知る人-あらなん」「つらき人-忘れがたき」というように、肯定的な表現が目立つことが分かる。これに反して、男性歌人の歌に登場する他者表現は,「つらき人-はてぞゆかしき」「戀しき人-おほかれば」「みくりくる人(私をくるしめる人)」など、戀人に對する恨みと對手のことを責れめる否定的な表現が見出される。 他者規定の類型においては,「思ふ」(1例)·「見る」(2例)·知る(3例)·「忘る」(2例)·「かきやる」(1例)などの動詞形の修飾表現と、「戀しき」(2例)·「つれ(も)なき」(7例)などの形容詞の使用が多い。いちばん多い用例をみせる「つれなき人」は、戀の最初の段階で感じる相手のイメ-ジを表わしており、戀一で4例も用いられている。殘りの3例は、戀二(1例)と戀四(2例)にえる。 戀の破局を向かえた心情の歌が收められた戀三で、「戀せし人」「戀しき人」というふうに過去形の戀人で描かれている。和泉式部の戀人に對する他者規定はもっと具體的で,「かきやりし人」という身體的な表現もみられる。戀の終わった悲しみと嘆きを詠っている歌が收められている戀四は「つらき人」「忘れゆく人」「よそにふる人」など、ごく一般的な描寫となっている。 このような『後拾遺集』の全般的な戀歌の傾向の中で、和泉式部の他者規定は用例數や內容面において異彩を放っている。さらに、和泉式祁が個性的な歌語の使用と豊かな想による破格的な試みをはかって千篇一律の歌壇を刺激する先驅けとなったと言うことを、戀歌を通じて確認することができた。

일본중고,중세문학의 사상적배경의 재검토

최문정 ( Choe Mun Jeong )
한국일어일문학회|일어일문학연구  47권 2호, 2003 pp. 177-202 ( 총 26 pages)
6,600
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論者は,今まで民衆文學として評されてきた軍記物語に對し、王法佛法相依論を中心とした支配イデオロギ-が作品の主題として成立に關わっていたことを論じてきた。ところが、このような見方は從來の佛敎史の通說とは相容れないものであったので、そのような食い違いが問題として指摘される余地があった。卽ち、「この時代に新佛敎の各宗派が次??に成立し、これらの佛敎思想の影響を受けた人??の中から、多くのすぐれた文學が生み出された」というように、新佛敎=民衆佛敎が中世文學の背景であったかのような說明か通說となっていた。ところが實際は、黑田俊雄の實證的な硏究とそれに呼應した硏究成果により、旣に二十余年前にその通說は覆されていた。平雅行が指摘されたように「これまで長い間、舊佛敎·寺社勢力は古代的なものとされ、鎌倉新佛敎が中世佛敎と位置づけられてきたが、黑田俊雄氏が1975年に顯密體制論を提起し、これで舊佛敎の評價は百八十度轉換し、顯密佛敎は今や中世佛敎の中核と位置づけられるに至った」わけである。さらに近年、平雅行等は思田俊雄の硏究を一層進展させ、緻密な實證的硏究業績を出したので、そのような歷史學の硏究成果を文學硏究にも取り人れ、學際的な方法で硏究が行われていくべきであるが、そのような動きはあまりにも微弱である。高校の敎科書や參考書にも過去の通說が載っており、韓國の大學の日本文學史や日本歷の授業でも日本の敎科書や參考書の內容を檢討せず受け人れ、過去の通說を敎えているのが實情である。さらに以上の問題は中世軍記物語だけに關わる問題ではない。中世文學と宗敎との結び付きはすこぶるく、かつ深いものであったと評されており、そのような問題は中古文學にも關わっているといえよう。 本稿では、文學の學際的な硏究方法の一環として、佛敎史の新學說をまとめ、現金の日本文學史の敎科書に載っている通說が新學說により覆されていることを提示し、論者の提示した軍記の學說が佛敎學界の新學說と合致していることを見せるとともに、以上のような作業が文學史のその他の領域でも行われるべきであることを覺え書きの性格として提起し、その可能性を模索しようとした。
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