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일어일문학연구검색

Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 56권 2호 (2006)
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賀茂祭(葵祭)は、『源氏物語』の中で第一部の六條御息所と葵上の車爭い、第二部の柏木と女三の宮ㅁの密通、第三部の薰と浮舟の出會いなど、その後の物語の方向を決定する分岐点のような場面を提供する場であり、物語の展開上、重要な役割を擔っている。その中でも特に、第一部の六條御息所と葵上の車爭いは賀茂祭での出來事であり、この事件に端を發して御息所の物の怪が跳梁し、正妻葵上の逝去、御息所の伊勢下向などと物語が進展することになる。その結果としての葵の上の死は、源氏にとって、左大臣家の後見を失うことを意味するが、紫上にとっては、源氏の實質的な正妻として物語の中心に躍り出ることになるきっかけでもある。注意すべきは、賀茂祭が六條御息所の物の怪を出現させ、物語を大きく展開させていく物語必須の條件として機能するということである。それは、物の怪が賀茂祭という、佛敎が入り入めない時を狙って跋扈するからであるが、御息所は齋宮の母として、수り神である天照大神の相貌を帶びた人物造型がなされているから、賀茂神の際に賀茂神と伊勢神との葛藤が顯になったとも考えられる。このように賀茂祭は、物語を動かす方法として機能し、人物造型や物語展開に大きな影響を及ぼしているのである。

日本文學,日本學 : 花びらや「物」に「書きつく」歌

김영 ( Young Kim )
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平安中葉以降、花を賞美していた風流は、花の葉や花びらに歌を書き入むような行爲にまで至っている。たとえば、『枕草子』の一四三段「殿などのおはしまさで後」では、料紙ではなく、「山吹の花びら」に歌の一部を直接書きつけている。これについて、「花びらを包んだ紙をさらに包んだ外紙」と、料紙の可能性が提示されていた。ところが、當時時には植物の枝や花びら、葉、實などに歌を書きつけたことがあり、本論考では特に物の贈答、卽ち料紙の代わりに歌を書きつけていた、常識から逸脫した消息に關して緖作品をもって考察した。つまり、平安時代に植物の枝や花びら、實などが歌を書き入む、料紙のような機能を果たした例や贈り物として木や草などが贈られた例、そして歌を贈る際に、樣樣なものが木の枝とともにやり取りされていた例が散見する。これらは、物を獻上する際に木の枝を結びつける習慣が見えることから、祝賀ㆍ祝福、あるいは長壽繁榮を祈る氣持ちが入められていたと思われる。そして、これらの風習は平安朝、特に一條朝には巧妙に仕掛けた技のように、風情のある消息として、樣樣な風流な演出を披露していたのである。

대시태자(大施太子) 설화의 한일비교 연구

김태광 ( Tae Quang Kim )
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本硏究は、韓日兩國における有名な本生譚の一つである大施太子(善友太子、善事太子)說話の韓日比較硏究を試みたものである。主たる硏究對象は漢譯佛典と韓日兩國の本生說話集の代表作といえる『釋迦如來十地修行記』と『三寶繪』である。本硏究の目的は本說話の韓日兩國における特徵と今までの硏究で明らかにされていない幾つかの問題點の解明にある。檢討してみた結果、『釋迦如來十地修行記』の出典はこれまでの硏究成果とは違って『報恩經』が推定された。また『三寶繪』の本說話における特殊な構成の原因の解明に努力し、それは天台係統の六波羅蜜思想に合わせるために起きた現像であったことなどが確認された。本話は韓日兩國に受容され、多いに流布した說話であるが、比較的日本よりは韓國で大きく變容を遂げた話といえよう。日本における本說話の變容と發展を阻害した一つの原因を擧げるならば、それは本說話と深く關わっている天台宗の六波羅蜜思想であろう。

아쿠타가와 류노스케(芥川龍之介)와 조선 -조선인식의 변천을 중심으로-

조경숙 ( Kyung Sook Cho )
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朝鮮の獨立という名分をとなえて日靑戰爭の起こる三年前の1892年に生まれた芥川は、日本帝國主義の土台を築き續けた明治帝國主義の中で、學生時代(小學校1898-高校1913)を送った。そして、日露戰爭の勝利で西洋帝國主義と肩を竝べた日本帝國主義の安定ととも、大正デモクラシ-の中で、ロシア革命の影響で1920年代擴張し續けた社會主義のなかで、また軍國主義の勢力が膨張しつづける昭和初期の1927年まで、10余年の間,大正期の作家として芥川が活躍したことは主知の通りであろう。35年4ヶ月といく長くない芥川の生のなかで、朝鮮と關連づけてみると、觸れたとおりの日靑戰爭と日露戰爭があるだろう。そして、明治維新後の征韓論以來、徐徐に朝鮮を植民地化する過程を經て、1910年名實ともに日本の植民地とした韓日合邦があった。そのなかで、芥川が朝鮮を直接經驗したことは、1921年大阪每日新聞の海外特派員として中國旅行の後、歸國の時、朝鮮を經由したのが、唯一無二の朝鮮經驗だといえるだろう。勿論1923年の關東大震災の時、朝鮮人等の虐殺に加えたという自警團員であったことも見逃すことはできないが、それは日本國內での朝鮮經驗であった。 そして、そのような經驗を通して、朝鮮についての芥川の認識は變化していくのであるが、それを簡略まとめてみると、次のようである。まず、歷史上の人物の加藤淸正を通してみた朝鮮というのは、潛在されあらわれたといえるのであろう。それは、日本武士と武士道、そして、ひいては日本歷史についての强い誇りを持っているし、その底邊には朝鮮についての優越感もあることがわかった。そして、作家となってからは、彼の作品の素材として朝鮮を表象している小品等として登場されている。それが、「朝鮮團扇」であり、また明治初期、朝鮮への往來とは危險性を內包しているにもかかわらず、なんの抵抗感なしに朝鮮を往來したり、朝鮮の名稱についてもなお「韓國」「朝鮮」がともにもちいられたりしていることからも、また、「高麗劍」という存在からもそれがうかがうことができた。これらの素材の表出は、朝鮮の植民地であることを作家が自然に受け入れていることが端的にあらわれている一例であるといえるのであろう。そして、中國旅行と關東大震災の經驗を通じて、芥川の朝鮮認識は相對化され、具體化された他者としてあらわれるが、「金將軍」がその代表的な作品であろう。假に、この「金將軍」にみられる芥川の他者認識というのは、植民地朝鮮の現實の認識を考えた「皇國史觀の批判」というよりも、日本歷史の粉飾を正當化させてくれる危險性の盛り入まれている。また、その他者認識は最晩年の「虎の話」と「夢」では、弱者認識につながっていることもうかがうことができたが、これもまた、日本帝國主義についての批判意識をともなう植民地朝鮮認識までは至らなかった。結局、自國中心主義日本中心主義から脫し得ないことであるというのが、歷史上で、そして通念化された植民地として、他者認識から弱者認識まで變遷されあらわれた。

日本文學,日本學 : 志賀直哉の『和解』と倫理 -血緣共同體との關わりを中心に-

김청균 ( Chung Gyoon Kim )
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志賀直哉の『和解』は1917年(大正6)10月、雜誌『黑潮』に發表された。この作品は志賀直哉とその父との和解の喜びを書き記した作品であるため、これと關連して、家族關係や血緣共同體との關連を指摘する先行硏究がある。しかし、これらの見解は『和解』という作品に描き出されている家族關係や血緣共同體の屬性を指摘はしているものの、そのような家族關係や血緣共同體を支える原理を解明するには至っていない。本論文ではこのような点に問題があると感じ、『和解』を倫理觀との關連という切り口から分析した。この作品の冒頭で主人公順吉は、心の中に蘇ってくる祖父と對話をする。順吉は祖先崇拜と孝を重んじる人物なのであり、この場面からは儒敎との關連を讀み取ることができる。また、創作行爲において、「私怨を晴らしてはいけない」という立場を貫く順吉の態度もまた、私的なことより公的なことを重んじる儒敎的な考え方と一脈通じる。 順吉は、第一子の死の際、赤子を救うために一生懸命動いてくれた周りの人人や醫者に感謝するが、麻布の家族がいないことには物足りない感じをうける。順吉の求める愛は、キリスト敎的な隣人愛ㆍ博愛ではなく、血緣に基づいた家族愛であり、このような愛は言い換えれば〈別愛〉なのであり、數多くある宗敎のなかで、極めて儒敎的な愛に近いものと言えるだろう。 主人公順吉は、第二子が誕生すると、名前を、祖母の「留女」という名前に「子」という一文字だけを加えた「留女子」と命名する。ここでは、祖母は「留女子」として生を續けられるという考え方が見られる。このような血緣を通した人間の再生という考え方は明らかに儒敎の再生觀と一致する。 順吉が以上のような考え方の持ち主であり、順吉の父との和解は、その當然の歸結だったと考えられる。

미야자와 켄지와 한용운 시의 광물 이미지 -수정과 진주의 결정성을 중심으로-

심종숙 ( Jong Sook Sim )
한국일어일문학회|일어일문학연구  56권 2호, 2006 pp. 85-100 ( 총 16 pages)
5,600
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本稿は比較文學の硏究方法により、文學と宗敎が一地点で向かい合う宗敎詩の觀点から宮澤賢治と韓龍雲の詩と童話を檢討した。兩詩人は、佛敎の行者でありながら社會運動家でもあって、彼らの作品にはその影が確かに反映されていると考えられる。そういう視座から鑛物イメ-ジの水晶と眞珠の結晶性を천ってみたところ、それは、詩人としての主體の意識の透明性と結晶性、時間性と持續性によって成された産物であった。絶對者、あるいは佛への絶え間ない指向性は時間性の中で結晶性を獲得していくが、その場合、詩人は佛と合一するために自己の內的鬪爭をすることになる。宗敎詩はその强烈度によって完熟していく。この時、水晶と眞珠は統一體として能動的中心となる。一方、金剛石は水晶の純化されたもので、「十力の金剛石」では如來の力、又は宇宙の透明なエネルギ-であった。寶石で造られた植物が十力の金剛石を待っていたのも、王子が持っていたことのない寶石を探しに野原へ出たのも同じことで讀み取ることができるだろう。

하야시 후미코(林芙美子) 소설에서의 여성성의 표현양상

최연 ( Yeon Choi )
한국일어일문학회|일어일문학연구  56권 2호, 2006 pp. 101-126 ( 총 26 pages)
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日本は明治維新以來、急激な社會轉換期において文學がその本來の役割以上に過重な使命を背負うようになった。つまり、近代文學は日本近代化という大きな流れの中で、歷史の進步と發展という大前提の下に、强い啓蒙主義的傾向を帶びるようになった。從って女性は疎外者として取り扱われて今まで男性を主とする社會制度に順應してきた女性は個人としての主義、主張などを持つことが出來なかった。本論文は今まで男性中心文學史において度外視された女性小說の發見と再評價を通して女性作家の書き方を探究しようとするのが目的である。女性作家の作品は女性特有の人生觀に價値觀が投影されるという前提の下に長い間、荒蕪地や邊境、接境地帶にあって不在と不可視性、沈默等の指標として見なされてきた女性小說を讀み直そうとすることである。芙美子のアナ-キ-な感性と想像力は、戰後の廢墟と荒廢にそれまでの日本社會と家父長的家族の崩壞、それと一緖に日本的な男女の二項對立關係が壞れていく樣相を見とり、その荒廢と混亂にみずからのジェンダ-表現をエネルギッシュに行っていった。『浮雲』の外に今まであまり硏究されていない『雨』、『骨』、『河沙魚』、などの作品分析を通じて女主人公の女性性について深ってみた。林芙美子の作品硏究は『放浪記』、『浮雲』、『晩菊』は活發的に行われているが、その他の作品はあまり活發的に硏究されていない實情である。今まであまり硏究されていない作品を分析するに至って色色足りない面が多かったと思う。今後の課題はそういう面を補って全集に入っていない作品を中心として林芙美子の文學的源泉と成果を論じることである。

조선통신사라는 명칭에 관하여 -천화(天和)2년(1682) 역사 자료를 중심으로-

기륜길차 ( Minowa Yoshitsugu )
한국일어일문학회|일어일문학연구  56권 2호, 2006 pp. 127-146 ( 총 20 pages)
6,000
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현재 일본에서는 조선통신사라는 용어를 많이 사용하고 있다. 이에 반해 한국에서는 통신사라는 용어를 사용하며 기술하는 것이 일반적이라 할 수 있다. 일본 학계에서 사용되고 있는 "조선통신사"라는 용어가 한국과 일본의 역사 문서에서 사용되는가를 확인하기 위하여, 1682년의 문서를 중심으로 일본대마도에서 쓰여진 종가 문서를 조사하고, 한국의 역사 문서인 朝鮮王朝實錄 등을 조사하였다. 그 결과, 朝鮮王朝實錄에서는 "조선통신사"라는 용어가 선조 때 일본 측 발언을 인용한 부분에만 사용이 되었고, 대마도 종가 문서에서는 조선 측의 문서를 필사(筆寫)한 부분을 제외하고는 "통신사"라는 용어가 사용되지 않았음을 확인할 수 있었다. 따라서 한국 측 입장에서는 通信使, 日本通信使, 日本國通信使가, 일본 측 입장에서는 조선시대 사절단 명칭을 信使라는 용어로 기술하는 것이 적절할지도 모르지만 對馬藩에서 통신사와 통신이라는 용어를 기록 문서에 쓰지 않은 이유도 생각할 필요가 있다.

야나기 무네요시(柳宗悅)를 통해본 한(韓),일(日)문화교류(文化交流) 전망

이병진 ( Byung Jin Lee )
한국일어일문학회|일어일문학연구  56권 2호, 2006 pp. 147-164 ( 총 18 pages)
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2005年は韓日友情の年でもあった。それに伴って韓國と日本では演劇や映畵や美術など多樣なジャンルの文化交流が行われている。さらに實際に多くの兩國の觀光客がお互いの國を訪れて互いの文化を體驗しながら今まで持っていた相手に對する違和感や偏見などを少しずつ見直すようになった。このような變化は兩國の政府の努力と共に、民間レベルの交流のお陰でもあった。却って兩國の政府が政治的な問題でいざこざしているときにも民間レベルでは旺盛に文化交流を續けてきたのである。そして2005年韓日友情の年を記念して企畵された<うれしい!朝鮮民畵>がソウル歷史博物館で9月6日から10月30日まで開かれた。この特別展は朝鮮の民畵から新しい美を發見した柳宗悅のコレクションを中心に展示された。柳宗悅(1889-11961)と言えばはやくから朝鮮民畵の美を發見しそれを活字化した人物で、朝鮮の民芸品から西歐中心の近代美術(工芸)を越いえられる新しい美を發見するにまで至る。さらに柳のこのような發見が1970年代から日本では朝鮮民芸品の蒐集ブ-ムにまでなる。これはこの頃の日本でのヨン樣ブ-ムに例えられるくらいのものであったかも知れない。こうした意味で柳の發見によって始まった日本での朝鮮民芸品への熱い關心はいわゆる韓流の元祖になるのであった。現在、韓國と日本は直接的な文化交流をしている。このような交流を通して純粹と云統を重んじる今までの保守的な立場から離れて、變容と交流そして關係性などが重視される新しい韓日關係を目指すようになった。さらに進んで韓國と日本を倂存させて東アジアを考える、という發想が新しく位置づけるようになったのである。このときに筆者は再び柳宗悅のことを考えてみたい。柳宗悅というテキスト自體が韓日の文化交流を考える上で多くのことを我我に示唆してくれるからだ。それは相手の國を理解するためにはその國の芸術や文化を知らなければならない、という立場がそれである。政治的な問題は一時的なもので、芸術は永遠である、という柳の立場を單に審美主義的な理想論だと斷定してしまうには何か物足りない氣がする。このように不完全な柳の朝鮮芸術論というテキストを通して我我の主體構成は過去としてはなく、未來の韓日關係を考えるべき時点に我らは立っているのである。

만주「건국대학」창설과 최남선의 〈건국신화론〉

전성곤 ( Sung Kon Jun )
한국일어일문학회|일어일문학연구  56권 2호, 2006 pp. 165-185 ( 총 21 pages)
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本稿では,朝鮮人である崔南善が滿州建國大學の敎授として招聘されたことを手掛かりに出發している.滿州における朝鮮人の複雜な位置は,滿州建國大學の中でも反映されている.建國大學の「民族協和を基本理念として,理想國家として滿州國を發展させるため,その指導者となる人材育成」をめざして設立されたが,崔南善もその一人として,朝鮮から招聘されたのである.そこで,崔南善の思いは,彼が建國大學硏究院で發表している「東方古文化の神聖觀念に就いて」と「滿蒙文化」において讀みとることができる.とりわけ,崔南善の「滿蒙文化」は,檀君神話の意義を改めて主張しようとしたことが浮かび上がった.その一つのテクストが多くのテクストの參照·引用から成り立っているテクストの重層性を,建國大學の政治的局面における多元的な支配ㆍ被支配の狀況として歷史的に存立しているコンテクストの重層性を踏まえて分析した.崔南善は「滿州國」の新しい理念を實現するためには東北諸民族の「建國神話」を創出することが必要だが,それにヒントを與えるのは「壇君」だと,彼は主張したのである.東北地方の民族の興亡を示すことで,「民族」の可變性を浮き上がらせ,日本の帝國支配をもまた相對化しようとしていた.「民族」問題が定まらない狀況を認知し,朝鮮民族の「檀君」神話にどのように取り組み,その影響力を發揮するかを苦慮するなど,皇道主義支配イデオロギ-とナショナリズムを行きつ태りつしていたのである.滿州國の統治理念の象徵としてのキ-ワ-ドが大同ㆍ王道ㆍ皇道であったならば,崔南善は,まさに,イデオロギ-の最先端を受容しながら,朝鮮民族の「文化論」に比重を置き,朝鮮の心を象徵する「檀君」を正當化する論理を提示しようとしたが,それが結局植民地イデオロギ-の受容になるというジレンマに陷ったのである.そこには,朝鮮人である崔南善の滿州「建國大學」において學理的「近代知」を受け入れつつ,自己「文化アイデンティティ」の再構築に努めと,その作業が持っている「普遍」へのこだわりを見ることができたであろう.
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