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Journal of Japanese Language Education Association


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 2005-7016
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 42권 0호 (2007)

招請講演 : 廣域日本語敎育學構築の必要性

이덕봉
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 3-12 ( 총 10 pages)
4,500
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종전의 한국과 일본의 일본어 교육관련 연구 실적은 다른 분야에 비해 연구 분야와 방법의 다양성에 있어서 단조롭고 양적으로도 매우 저조한 실정이다. 일본어 교육학은 실천적 연구에 의해 축적된 임상적 지식을 바탕으로 발전하는 분야라는 속성 때문에 실천적 연구 실적이 적다는 것은 그만큼 학문적 발전과 교육 수준의 향상에 저해 요인으로 작용할 것이다. 이러한 문제를 해결하기 위해서는 문화간 커뮤니케이션 능력을 가진 광역 전문가를 필요로 하는 시대적 요구에 부응할 수 있도록 광역 일본어 교육학 구축의 필요성이 높다. 광역 일본어 교육학을 구성하는 학문 분야로서 언어학, 응용언어학, 교육학, 일본학 등 학제적 분야에 걸친 새로운 학문분야를 구축하는 것이다. 그러한 학문 분야의 구축을 통해 교원 양성의 단계에서 학문적 능력을 갖춘 교원을 양성함으로써 일본어 교육 관련 실천적 연구의 축적이 활성화될 것이다. 특히 이러한 강좌를 소화할 수 있는 연구자를 양성하기 위하여 대학원 교육의 충실을 기해야 할 것이며 실천적 연구 발표의 장이 확대 되어야 할 것이다. 일본어 교육학의 임상적 지식은 이러한 실천적 연구의 축적을 통해 지속적인 발전을 기할 수 있을 것이다.

대학원 교육 활성화 방안 -전남대 일어일문학과의 예를 중심으로-

이덕배
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 13-29 ( 총 17 pages)
5,700
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最近, 韓國の大學院は志願率が著しく低下する現象を見せている。全南大學の大學院日語日文學科では, 人文系大學院の場合, 今後生涯敎育の場になる可能性があると判斷した。このような大學院の敎育環境の變化に備え, 大學院敎育の發展の方向を模索したが, 本稿はその內容についての考察である。大學が位置している, いわゆる西南圈という地域の特性と將來の地域開發計畵を視野に入れ, 人材養成の方向を「西南圈開發に備えての對日專門人材養成」とし, 大學院の敎科課程を改編した。なお, 敎科課程の實踐のために, 「日本語敎育」「韓日通譯·飜譯」というこつの人材養成コ―スを設けた。日本語敎育分野では, 大學院の敎科課程以外にも第2言語習得硏究會や日本語敎育文法硏究會で理論を習得し, これを敎育現場に活用できるようにする。一方, 通譯·飜譯分野では, 今後, 光州と全南地域の通譯·醱譯人材の需要が伸ることを予想して, 通譯と醱譯を産業のインフラ―としてとらえ,韓日通譯·飜譯人材養成のための環境を造り上げていくことを目指す。本稿での考察は, 特定の地域における大學院についての構想であり, これを他の大學院にそのまま適用するにはある程度の制限もありうると見られる。ただしそのような限界をも念頭におきながら, 今後の大學院の敎育方向の設定には地域の特性を考慮し, 大學院ごとに特色というべきものを전えていくべきであることを提案した。
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今日韓國語で使われている末子音の數は總28個である。この中で漢字音に現れる末子音は6個だけである。この6個の末子音を日本漢字音と比較してみると、日本漢字音では一つの獨立された音節として現れることが分かる。例えば「刊」という漢字は韓國漢字音では「간(kan)」として1音節で現れるが、日本漢字音では「カン」のように2音節で現れる。結局韓國漢字音の末子音「-ㄴ(-n)」が日本漢字音では「-ン(-n)」という一つの獨立された音節として現れることになる。他の末子音と日本漢字音との關係を表すと、韓國漢字音末子音-p(-ㅂ)は日本漢字音では獨立された音節-ウで現れ、-l(-ㄹ)は-ツ、-チで現れ、-k(-ㄱ)は-ク、-キで現れる。また韓國漢字音の末子音-m(-ㅁ)と-n(-ㄴ)は-ンで現れ、-ng(-ㅇ)は-ウ、-イで現れる。このように、韓國漢字音に現れる末子音6個は日本漢字音では各各獨立された音節として現れるが、本硏究では具體的にどのような漢字に關連性があるかを日本常用漢字を對象に調査してみた。そして調査した內容を分析しながら本文の中で日本語漢字敎育指導法の觀点から特徵的な方法、注意点などについて述べてきた。それをまとめてみると次のようである。理解のために上の表について一つ例を上げてみることにする。韓國漢字音の末子音-m(-ㅁ)と-n(-ㄴ)は全て日本漢字音の-n(ン)と對應し、その數が日本常用漢字には392字あるということである。このようなことから今日韓國漢字音で「三」と「山」が異なる音で現れるのに對し、日本漢字音では2字共に「サン」として同音で現れるということが理解できるだろう。その他、「感」と「刊」も韓國漢字音では異なる音であるが、日本漢字音では「カン」で同音である。この方法一つだけでも多くの日本漢字音を解決できると考えられる。各各の章ではこういう指導法について提示してきた。日本漢字音の調査については初音を基準にした。そして對應漢字數と全體の漢字數が合わないのは對應から外れる例外漢字音があるからである。これについては本文の表を參照されたい。最後に、本硏究は韓國漢字音の末子音を利用して日本漢字音を讀める方法についての硏究として日本語漢字敎育の際、多くのヒントを提供すると思うが、全ての漢字を本硏究の指導法でカバ一できることではない。しかし確かなことは各各の章で提示した指導法を日本語漢字敎育に積極的に活用するなら、より易しく習得すると共に、學習者の興味を誘發して今まで難しく感じてきた日本漢字音について興味を持って接近させることができると考えられる。
7,000
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本稿の硏究では韓國語``아침(アッチム)``と日本語「朝」について考察するにあたって、まず아침(アッチム)`と「朝」が兩國の辭書ではどういう意味で書かれてのか、意味的な差があるのかを考察した後、兩國のコ一パスを通じ``아침(アッチム)``が入っている文章と「朝」が入っている文章を各各抽出し、時間的な使われ方に差があるのかを見ることにする。そして最後に韓國人と日本人が持っている``아침(アッチム)``と「朝」に對する槪念の認識に差があるのかを調べるために兩國にてそれぞれ設問調査を實施し、集計することにする。韓國語``아침(アッチム)``と日本語「朝」について簡單にまとめると以下の通りである。①``아침(アッチム)``と「朝」の兩言語の辭書での意味を比較すると韓國語の二つの辭書では``아침(アッチム)``と「朝」の始まりが"날이 샐 때부터(夜が開ける時から)"という部分では完全に一致しているが``아침(アッチム)``の終りを示すところでは『東亞國語辭典』では"아침밥을 먹을 때까지(朝御飯を食べるときまで)"と表記されており、一方『延世國語辭典』では"하루의 일이 시작되는 무렵까지(一日の仕事が始まる頃まで)"と表記されていた。また、日本の『岩波國語辭典』に書かれているように「正午までを指す場合もある」という表記がなされていないという点で韓日の國語辭典での意味上の差が多少表われた。②文章に表われる``아침(アッチム)``と「朝」の出現頻度率を見ると、韓國語の例文646のうち「朝1時」、「朝2時」の入っていた文章は全くなく、日本語の例文575のうち「1時」「2時」の入っていた文章は8つ抽出され、特に「朝3時」から「朝5時」までの時間帶を見ると韓國語は646の文章のうち54が抽出され、全體の8.4%であったのに比べ日本語「朝3時」から「朝5時」までの時間帶では575の文章のうち146抽出され、全體の25.4%を占めた。この結果は韓國語の場合「1時」から「4時」までの數が12の例文のみ抽出されたの見ると、結局「午前1時から4時までは새벽(明け方)」という時間語を多く使っているため相對的に「朝1時」から「4時」までが少なくなったのではないかと思われる。一方、日本語の場合「朝3時」から「朝4時」までの數が68と韓國語のそれと比べ5.6倍もの差が出たことは「朝3時」「朝4時」が韓國語よりも多く使われていることが分かる。③``아침(アッチム)``と「朝」の始まりを設問調査を通じて考察した結果、``아침(アッチム)``の始まりを4時だと答えた韓國人の數は4名であったのに比べ日本人の數は58名と日本人の方が韓國人より15倍もの差を示した。5時だけをみても韓國人は41名であったのに比べ日本人は155名と3.8倍もの差が出たことを見ると日本人の方が韓國人より「朝」の始まりに對する認識が早いということが分かった。一方、``아침(アッチム)``の終りの結果を見ると韓國人は``아침(アッチム)``の終りを最も多く認識している時間は9時で、日本人のうち73名が9時だと答えたのに比べ韓國人は日本人よりも2倍以上になる154名が9時だと答えたのを見ると韓國人の``아침(アッチム)``の終りを「朝9時まで」という認識を日本人よりもずっと多くしていることが分かった。また、このことは辭書に書かれている「朝御飯を食べる時まで」の時間、「一日の仕事が始まる頃まで」の時間と類似した樣相を見せていると言える。``아침(アッチム)``と「朝」の全體の平均値を見ると韓國人の``아침(アッチム)``の始まりに對する時間認識は平均6時30分で、日本人の「朝」の始まりに對する時間認識は平均5時24分で、約1時間ほどの差を出た。また、韓國人の``아침(アッチム)``との終わりに對する時間認識は平均9時12分で、日本人の「朝」の終りに對する時間認識は平均8時30分で、40分ほどの差を示した。

近代日本における音聲中心主義と假名遣

형진의
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 87-106 ( 총 20 pages)
6,000
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가나즈카이는 일본어를 일본 문자인 가나로 표기하는 법칙으로 일본어의 전통 규범에 따른 표기법인 역사적가나즈카이와 발음에 근거한 표음가나즈카이로 나눌 수 있다. 이것은 단순한 전통의 보존이나 발음주의의 문제가 아니고, 가나즈카이를 일본어를 표기하는 법칙으로 여기는 언어관과, 일본어의 음을 표기하는 법칙으로 여기는 언어관의 대립이다. 이 두 가지 언어관의 대립이 사회적으로 관심을 불러일으키고 문제로서 대두되는 것은 근대국가의 성립과 ``국어``구축에 의해서이다. 일본의 경우 근대국가 시스템의 매개 언어로서 ``국어``를 구축하는 과정에서, 그동안 문제 언어만이 언어로서 가치를 인정받던 것을 음성언어를 중심으로 표준어를 제정하고 언문일치 문장을 확립하는 등 일련의 ``국어``개혁을 이끌면서 표기법에 있어서도 일본어 전통의 표기법으로 여겨지던 역사적가나즈카이를 발음에 근거한 표음가나즈카이로 개정할 것을 시도한다. 그러나 표준어 제정이나 언문일치제 문장 확립은 큰 무리 없이 진행되었으나 가나즈카이에 한해서는 일본어의 전통으로 여겨지는 역사적가나즈카이를 주장하는 세력의 힘이 컸기 때문에 1946년 ``현대가나즈카이``가 시행되기까지 표음식가나즈카이는 여러 차례에 걸쳐 개정되면서 실제로 시행되지는 못 하였다. 그러나 같은 시기 식민지조선에서의 ``국어(일본어)``정책은 일본에서와는 달리 처음부터 표음가나즈카이를 시행했다. 조선에서의 ``국어(일본어)``교육은 ``국민정신이 깃드는 곳``이라는 이념 하에 동화정책의 일환으로 실시되었는데, 그 과정에서 전통이라고 여겨지는 역사적가나즈카이가 아닌 일본어의 음을 그대로 옮긴 표음가나즈카이가 채용된 것이다. 이것은 문자가 아닌 음성의 공유를 통해 국민으로서의 연대감을 갖게 하는 것을 목표로, 근대 일본의``국어``구축을 이끌었던 ``국어``개량론자 우에다 가즈토시의 언어관에 기인한 것이다.

『小公子』に見られる「おる」について

중촌부미
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 107-125 ( 총 19 pages)
5,900
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본고에서는 메이지시대에 출간된 와카마츠시즈코 역 『소공자』에 쓰인 「oru」에 주목하여 그 용례에 대한 상세한 분석 등의 일련의 과정을 통해 『소공자』에서의「oru」가 갖는 의미와 역할에 대해 고찰을 시도해 보았다. 본고의 목적 가운데 하나는 <「oru」의 겸양어적 의미가 「丁寧語」화하는 방향으로 바뀌어 갔다>는 견해에 대해 과연 그러한 해석이 유효한 것인지 확인하는 데 있다. 먼저 『소공자』에서는 「~teoru·oru」가 <자신의 입장을 낮추는 것>으로서의 겸양어적인 의미와 역할 뿐 아니라 丁寧語 및 정중어, 존대어적인 의미와 용법도 갖고 있다는 사실을 확인할 수 있었다. 또한 본서에서는 「~teiru·iru」도 함께 쓰이고 있는데 이러한 형식은 거의 「~teoru·oru」와 같은 의미와 용법으로써 쓰이고 있다. 즉 현대어와는 달리 이러한 두 양식이 동일한 장면에서 혼용되고 있다고 해도 좋을 것이다. 한편 『소공자』에서는 「orareru」라는 형식도 많이 쓰이고 있다. 이러한 형식의 의미를 잘 고찰해 보면 하나같이 모든 용례들이 존경어로서의 용법이고 『소공자』에서 쓰이고 있는 「irareru」와 비교·대조해 볼 때 여기에서도 현대어와의 다름을 찾을 수 있는 것이다. 즉 현대일본어의 경어표현으로서는 <오용>으로도 여겨지는 「~orareru」 형식의 표현이 『소공자』안에서는 존경어적으로 쓰이고 있는 것이다. 다만 이는 <「oru」의 겸양어적인 의미가 「丁寧語」화되는 방향으로 바뀌어 가고 있다>고 하는 필자의 시점에서 볼 때 『소공자』에서의 「orareru」는 丁寧語화한 「oru」에 존경형식의 「reru」가 접속되었다는 해석도 성립한다. 또한 「oru」의 용례 가운데는 <문어체>로서의 성격이 강한 문장들도 적지 않다. 즉 「iru」가 쓰일 것이 기대되는 장면에서 「oru」와의 혼용이 많이 보이는 것이다. 이 역시 현대어와의 차이 중의 하나라고 할 수 있겟지만 와카마츠 역의 『소공자』가 그 이전까지의 한문체 주류의 문체에 비해 당시로서는 드물게 <순수한 구어를 살린 언문일치제>소설로 알려져 있다는 사실과 괴리가 있음을 느끼게 한다. 마지막으로 『소공자』의 「oru」와 현대어 「oru」의 차이에 대한 고찰을 통해 『소공자』가 지닌 메이지시대의 언어변화의 과도기적인 성격을 대변하는 특징을 거듭 확인할 수 있었다는 점을 밝혀둔다.
6,300
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청령日記と閑中錄、自分しか經驗しなかった數奇な運命を基盤で、自己告白的でありながら內面の心理描寫を付け加えた獨創的な技法の創作物という共通点を持っている。二つの女流文學の時代的背景も非常に似ている。청령日記の場合、假名が共用文字で漢字の代わりをして實質的に日本の國字で地位を獲得して普及された貴族社會で、女性の眩しい進出を背景にしている。閑中錄もハングルの普及壬辰倭亂·丙子胡亂が引き起こした朝鮮朝後期の社會的精神的な變革が持って來た結果物であった。朝鮮後期の個人の意識が發達してこれを表出する欲求も强まって頭をもたげ始めた個人、特に女性の自覺が、日記紀行文學類を産出するようになった背景である。本論文では類似の背景と特徵を持った朝鮮朝實記文學と平安朝日記文學の樣式論的な特性を考察しようとした。平安朝女流日記文學の嚆矢に知られた청령日記と朝鮮朝後期の自敍傳的な回顧錄と知られた閑中錄の特性把握に限定して、二つの作品が持ったジャンル的な性格を抽出しようとした。以上の考察によって、청령日記と閑中錄に代表される平安朝と朝鮮朝の女流文學の本質を追い求めることと同時に、日記文學ないし實記文學を理解する一つの時点にしようとした。청령日記と閑中錄は、日本と韓國文學の中で西歐の自敍傳の槪念に一番近接した最初の作品であることに間違いない。청령日記の序文で作者は、僞りの多い古物語に對してそういう僞りを排除して謙遜を內包した平凡な身上の眞實を書くという点に相當な自負心を持っている。新文學の創始の意志が作者の心中にあったのに間違いない。また、作品公表の意志が强かったことも分かる。一方、閑中錄は청량日記のような直接的な執筆意圖は見えない。宮廷の法道である洗草によって殘っていない自分の手迹を、甥の請いによって追慕之痛の恨を書いて子孫に傳えてもらうことだけを書いている。しかし、閑中錄も一生の問積もって來た作品執筆の意志と子孫に傳える自分の手迹に對する自負心が確實に感じられる。洗草と言うのは元元朝鮮歷代の王の實錄編纂が完成されてからはその草稿として使って原稿を水で洗って墨で使った內容を消してつぶしてしまうことを言う。ここでは世子嬪に實家安否のような私的な內容の文を殘さないという士丈夫家の法道として定着されたことが分かる。このような洗草という內容でみると、世子嬪の位置で個人的な文を殘すこと自體が正しい事ではなかった。また小學を中心にした傳統的な敎養授業でも女として文を書いて傳えることを禁忌した。それに女として守る道德律が嚴格な儒敎社會で悲劇的な家族史に對して記錄するということは類例のない創作的で挑戰的な試みだった。一般讀者を意識した執筆ではなくて、もちろん嫁女である嘉順宮(正祖の嬪)に極秘裡に任せながら後日純祖に傳えようとする意圖だったが、自分の生の敍述に前提される韓國傳統社會の慣習的な制約を乘り越えて執筆が成り立ったのである。この点には閑中錄も、西歐の自傳及び日本の日記文學が獲得した獨自的なジャンルの先驅け的な役目を成した作品である。청령日記と閑中錄は、西歐の自傳契約に基づかないとしても、自分の生の軌跡を中心にした人性の歷史を、回想的な手法によって書いた意圖的で創作的な書き입みの結果物である。
6,300
초록보기
本稿は、江戶前期の假名草子·신本に見える狂詩と朝鮮後期の詩人金笠の漢詩とを對象にし、兩者の間に對應する滑稽味の手法を比較檢討しようとしたものである。以下、檢討の結果を纏めると次の通りである。まず、日本の狂詩と金笠の漢詩において、漢字の音と訓を借りて詩し、滑稽味を追求しようとしていたことが分かった。それは中國から自國に漢字を導入し、自國語の中で外國語と感じないほど一般的に漢字の音と訓を使っていた韓日兩國の文化的風土の中から自然に出來上がった結果と見てよい。韓國では昔から鄕札や吏讀表記があり、日本では昔から万葉假名があったため、それを作詩に反映するという考えはそれほど難しくなかったはずである。なお、作者が漢詩の法則を守らずに意圖的に出たら目に詠み、滑稽味を狙おうとした作品群が韓日兩國に共存していることが明らかであった。最も多く用いられた手法は、漢詩法則の中でも最も大切にしなければならない押韻を守らずに詠むことであったが、押韻する韻脚にすべて同一文字を配するものがほとんどであった。漢詩の平仄法則の中でも最も守らなければいけない法則を守らないことによって、讀者に荒唐無稽さや笑いを與えようとしたのである。また、そのことを裏返して韻脚が最後の文字であることを念頭におきつつ、各句の最初の文字を同一文字に仕立てる作品群をも韓日ともにあったのを明確にした。それは漢詩を高尙な趣味または敎養としてのみ考えずに遊戱文化の一つとして認識する階層がこの時代に幅廣く存在した證でもある。そして、山と關わる詩を詠む際に意圖的に山の仕上げた日本の狂詩の例のごとく、日本では形態で滑稽味を追求しようとした作品群が多く存在した。管見では、韓國の滑稽的漢詩では見たことのない形態重視のものである。一方で、日本の監視鑑賞法が專ら讀み下だし文に賴ったこととは違い、朝鮮の漢詩鑑賞法はまず音讀みをして一回鑑賞し、さらに韓國語で再度鑑賞する方法を採っていたため、日本の狂詩より、音讀みが與えるリズミカルな音樂性を金笠の漢詩は遙かに備えていたのである。

김사량(金史良)의 『천마(天馬)』에 나타난 탈식민주의 연구

최광석
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 175-195 ( 총 21 pages)
6,100
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金史良の日本語の小說の中で朝鮮を背景する作品は二つ作品群で大別することができる。すなわち、「土城廊」(『文芸首都』1940.2)、「箕子林」(文芸首都』1940.6)、「天馬」(『文芸春秋』1940.6)、「草深し」(『文芸』1940.7)などの作品と「泥棒」(『文芸首都』1941.5),「山の神神」(『文芸首都』1941.9)、「ムルオリ島」(『國民文學』1942.1)、「天使」(『故鄕』1942.4)、「月女」(『故鄕』1942.4),「乞食の墓」『文化朝鮮』1942.1)などの作品の分類がそれに該當する。こんな分類ができるのは前者の作品群が植民地の朝鮮の現實を正確に描いているのに比べて、後者の作品群は苛酷な時代狀況ため現實逃避的な性向を明らかに表出させているからだ。前者の系列の作品は平壤の貧民窟で生死の岐路に立っている下層民の絶望的な生を描寫しているか(「土城廊」)、日帝の植民地政策に向かってものすごい批判を加えているか(「草深し」)、日帝の同化論理におぼれている醜?な朝鮮人とそんな朝鮮人だけで朝鮮人の民族性を規定している日本人に對して批判する(「天馬」)ような性向を明らかに見せている。金史良は大學の時代の同人誌『堤防』で、朝鮮の現實を正確に描寫してみたいと言いながら、"どれ位 正鵠に把握出來るか、どれ程眞實ある形象化が爲されているか、俺には全くおつかない。精一杯努力してみるだけである。泥、小屋、土城廊、百姓、學生、靑年、何一つ描かずにおれぬものはない"と自分の作家的な態度を告白した。こんな点を勘案したら、植民地の朝鮮の現實を題材にして、被支配民族の朝鮮人の悲慘な生を描いている前者系列の作品は作家としての出?点で指向してあった金史良の作家精神をもっとも充?に具顯したものでみることができる。また、"朝鮮の文化や生活や人間をもつとひろい內地の讀者層へ訴え出るという動機、叉謙遜な意味で言えば引いては朝鮮文化を東洋や世界へひろめるためにその仲介者の勞をとりたいといふ動機"と言う創作の意圖にいちばん符合しているというこができる。こんな点を念頭においたら、「天馬」は金史良の作品にあって、もっとも問題的な作品で見ることができる。その理由は「天馬」が日帝によって流布されている劣等な朝鮮人の民族性という欺瞞的な規程に對して積極的な對抗論を試?しているためだ。植民地の狀況というものは一方では、植民地的な支配と統制の條件のなかで被支配民族が發展的で開化することができるという一つの目的論を提示する。しかし、ほかの一方では劣等な人種主義を流布させて、差別的で權威主義的な形態の政治的な統制が適合するというのを被支配民族に注入させる。したがって植民地の住民はそんな體系の原因と結果として看做させられて解釋的な循環のなかで拘禁されてしまうのである。 「天馬」はこんな植民地的な體制がもっている兩價的な矛盾をみのがさなくて描寫してある。そのために日帝に對して高度に緻密な對抗談論を表出させている脫殖民主義を指向しているとみることができる。以上の論議を通じて「天馬」はたとえ日本語の作品と言う濃い惜しさを殘しているが、それにもかかわらず、韓國の近代文學史の暗黑期において一筋の光のような作品だと言える。そして金史良が日帝の殖民主義に對してどのくらい强い批判意識を持っているかを見當つけることができる。

『삼천리』와 『청구』의 "전후"문제

안정화
한국일본어교육학회|일본어교육  42권 0호, 2007 pp. 197-215 ( 총 19 pages)
5,900
초록보기
在日韓國人の社會は日本の中のマイナリ一テイである。最近、マイナリ一テイという單語がよく使われるようになって多文化の一部分のような錯覺を呼び起こすが、實際、彼らのとってはそう簡單に跳ばして行く問題ではない。不平等と差別が日常化された社會で生きてきた在日韓國人が見る、`戰後`は確かに日本人とは違うであろうし、感じるのも違うと思われる。ここでは『三千理』と『靑丘』という在日韓國人の雜誌が長い間、彼らの生き方と考えを記錄し?けてきたとするならば、在日韓國人の`戰後認識`がその下に當然、敷いてあるだろうという計算から硏究を進めた。この論では、『三千理』と『靑丘』の?後がどんな內容を扱った、またどんな方法で問題を解いていくのか、そしてどんな未來を見ようとしたのかを調べて見ようとする。そうすることでマイナリ一テイとしての在日韓國人の社?が過去どんな樣子であって、現在の狀況はどうであって、これからの未來はどういう風に進んでいくかということがもっと確實になると思う。『三千理』と『靑丘』のなかに`戰後`をテ一マとして企畵された記事を中心として在日韓國人の生涯と考え、現實と未來を察してみる過程である。二つの雜誌は`戰後`の現實的な問題として戰爭の責任を負うことと經濟的な補償を、精神的な矛盾として戰後民主主義と日本の脫亞入歐的な態度を貼らしている。そして長期的な視線で統一問題を考え、いつかきっと果たすべき課題として認識している。在日韓國人社會が境界人としてまだにほんと韓國の中で存在していることが彼らの現在であるし、そして精神的な根の强さであると思われる。
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