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Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 45권 2호 (2003)

문학,일본학 : 국제학술대회 ; 주제 : 일본 연구의 현재와 미래 ; 『국어』와 『일본어』

자안선방 ( Ja An Seon Bang )
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문학,일본학 : 국제학술대회 ; 주제 : 일본 연구의 현재와 미래 ; 민속학과 전승

덕환아목 ( Tokumaru Aki )
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本稿は1945年から2002年まで、韓國における著書及び譯書、學術論文、修士論文、博士論文などの日本文學硏究を對象として、現況と展望を提示したものである。「韓國日本文學關係硏究文獻一覽」を中心に分析した結果をまとめてみると次のようになる。 著書及び譯書、學術論文、學位論文の總計は4,583篇で、日本文學一般が312篇(6.8%)、上代文學が363篇(7.9%)、中古文學が470篇(10.3%)、中世文學が349篇(7.6%)、近世文學が403篇(8.8%)、近代文學が2,686篇(58.6%)である。ここて注目したいのは、文學一般を除外すると、近代日本文學の硏究が全體の約63%も占めているという点である。作品別には、『万葉集』が154篇、『源氏物語』が108篇の順で、作者別には、夏目漱石が351篇で最も多く、芥川龍之介が169篇、川端康成120篇、島崎藤村が117篇の順であった。 次の四点をこれから進むべき日本文學硏究の展望としたい。 まず、韓國での日本文學の硏究がもっと幅廣行われ、日本文學の全體像が把握できるようにすべきだと思う。すなわち、これからの硏究は量的增加ばかりでなく、質的成長も遂げなければならないと思われる。 二番目、日本文學を硏究·鑑賞するためには、專門家による體系的な飜譯が必要である。 三番目、韓國比較文學の場合、76%が近代文學に集中されているが、比較硏究も時代を廣げていく必要があるかと思う。 四番目、韓國における日本文學の硏究も注目すべきだと思う。硏究論文を調べてみると、意外に硏究者同士の交流がない。參考文獻や引用はもっぱら日本人硏究者の論文ばかりで、內容的に類似した先行論文があるにもかかわらず、韓國人硏究者の論文はほとんど引用されていない。お互いの論文を讀みあい、指摘する、ことによって硏究も發展できると思う。 韓國ではいまだた日語日文學を硏究する人は肩身の狹い思いをする時がある。これからの日本文學硏究は英文學やドイツ文學、ロシア文學と同じように、外國文學の一つとして享受され、硏究されるべきだと思う。また最近はインタ-ネットなど通信手段の發展により諸外國の硏究者とも情報交流が便利になり、韓國における日本文學の硏究も確立期を迎えるだろうと思われる。

문학,일본학 : 제영에 관한 고찰(3) - 『인련』 영가를 중심으로 -

나성은 ( Na Seong Eun )
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「忍ぶ」は、忍耐する意味のしのぶが用いられているが、その反面に、人目を避ける、つつみ隱すという意味の用例が有力になってくる。 和歌に詠まれる際には、その多くが戀の行進する初期段階において、「隱す·秘める」の意で用いられている。戀する思いを外に表せない氣持ちと戀心が高まって、これ以上堪えることができない氣持ちとの葛藤の深化が、この「忍ぶ」ということばには凝縮されている。心情を表すことばの中でも、かなり主觀的なイメ-ジが强いといえよう。 本稿は、「忍ぶ」語を用いた歌の主題を見てゆくことで、「忍ぶ」語を用いた歌が、後に「忍戀」題で詠まれる歌にどのように浸透していったのか、その点を明らかにしたものである。方法として「ぶ」を用いた歌と「忍戀」題で詠まれた歌の表現樣相について詳しく見てみた。 その結果、「忍戀」題の詠歌において、「忍ぶ」語を用いた歌と句と同發想に基づいた歌が多數詠まれていることを明らかにすることができた。これは、歌語「忍ぶ」が持っているイメ-ジや「忍ぶ」と一緖に用いわれる他のことばの使い樣に、共通性が窺われる。しかし、その一方、「忍戀」題の詠歌では、相手と戀情を共有せず、獨りで忍ぶことを內容とする歌と忍ぶ戀心を外に出さないことを詠む歌のように、詠歌內容が限定されて表れる。さらに、「忍戀」題と嚴密に區分しようとする意圖から、『爲忠家初度百首』に「共忍戀」題が設けられるようになったと孝えられる。 「忍戀」題の詠歌內容と表現に限定された点が見られることは、日常の贈答歌とは區別される題詠特有の性質からであろう。題詠の規制について、「忍戀」題においても確かめることができた。

문학,일본학 : 근송정류리의 <십이단물>고

한경자 ( Han Gyeong Ja )
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十二段物とは, 淨瑠璃の起源といわれる, 淨瑠璃姬と牛若の戀物語である「淨瑠璃物語」を素材とした作品をさす. 十二段物は時代によって樣??な變化をみせるが, 近松門左衛門(1653-1724)の十二段物では「淨瑠璃物語」の筋の一部分だけを??き出した先行作品とは違い, 牛若の鞍馬出から淨瑠璃姬の死までを扱っている. また, 旣存の吉次や長者の人物像を改め, 牛若側の者という色合を强めて, 彼らの活躍の場を擴大している. それは近松が十二段物を, 「牛若の平家討伐の祝言」として描き出すために加えた變化であると思われる. 「てんぐのだいり」では, 「源氏十二段」の初段で吉次の手柄を讚えるだけであったのと違い, 天狗が牛若の守護を約束し, 天狗勢??で源氏の門出を祝い, また, 二段目の强盜退治を「源氏の門出」として祝儀性を付與したり, 曲尾でも源氏の御代を讚えている. 「十二段」でも同樣であり, 多聞天や僧正坊が大願成就を約したり, 强盜退治を「源氏の門出よし」とし, さらに平家の酒宴の座に遭遇した牛約に無念の思いをさせ, 平家への復讐心を一層かきたてる場面を設けている. また, 「十二段」では, 死んだ淨瑠璃姬が藥師如來の化身であることを明かして牛若に平家討伐を勸めたり, 「源氏れいぜいぶし」では, 奇瑞があらわれるなど, 平家追討の前述を祝うために姬の死が描き出されている. 「十二段」では, 先行作品にも描かれてきた强盜退治譚を牛若の武勇としてだけではなく山中常盤譚に結び付けたり, 「孕常盤」では常盤が刑場に引かれて行く場面を採り入れ, また, 「源氏れいぜいぶし」では兄??朝の話に結び付けるなど, 近松の十二段物では牛若の平家追討にいたる物語が, 牛若の武勇·家族 (母·兄) との恩愛·淨瑠璃姬との戀愛の物語を配することで, 劇的なものに仕立てられている. 近松は自身の十二段物から, 「吹上」の場面や吉次による酷使などの牛若の若難を省略することで. 「淨瑠璃物語」が本來持っていた??種流璃譚的な性格を薄めつつ, 家族との情愛や戀愛物語を效果的に採り入れ, 牛若の平家追討への物語としての性格を强く押し出している. 近松の十二段物においては, 決して牛若は超人的な力持强い主人公として描かれているわけではないが, 周??人物によって支えられながら平家追討の意志を强める人物として造型されている. 牛若との對立を際立ため, 吉次も長者も牛若側の人物として置き換えられているのである. このような近松の作品における人物關係の捉え直しや周??人物の比重の增加は, 紀海音「未廣十二段」 (正德五年[1744]), 竹田出雲·三好松洛·竹田小出雲合作「兒源氏道中軍記」(延享元年[1744]) など, 後の作品にも影響を與えている.

문학,일본학 : 『담대소심록』중에서 호의 성에 대하여

노희진 ( No Hui Jin )
한국일어일문학회|일어일문학연구  45권 2호, 2003 pp. 93-108 ( 총 16 pages)
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It seems that an anecdote about a fox asserted in TANDAISYOUSINROKU by UEDAAKINARI presents a world different from that of a large majority of human beings where the doctrine of Confucianism and Buddhism, i.e, the concept of good and evil, and right and wrong prevails as the criteria. There is the concept of good and evil, and right and wrong in the world of human beings. Human beings who have the concept of good and evil, and right and wrong of Confucianism and Buddhism judge someone`s wrongdoing by considering what kind of will he had when doing such a behavior as the criteria of judgement. Therefore, in some cases they cannot judge his behavior only by the norm with the intervention of humaneness despite the standard of good and evil, and right and wrong. Fox or God that has no concept of good and evil, and right and wrong judges by the results appeared on the surface regardless of man`s will. For AKINARI, such animals as fox, dogs, raccoon, wolves and snakes are the ones that repay man for his behavior. In reality, the behavior of fox is the act of man. That is to say, it is a mirror itself. But, if man destroys the mirror to the extent of perfection or kills the fox or snake the mirror cannot reflect man. If the fox or snake does not exist, it cannot retaliate man. AKINARI believed in fox on the basis of his own direct experience saying that "The more you see of fox and raccoon, the more you get to know they take the form of man." in article 13 of the TANDAISYOUSINROKU. The fox and mirror have the same nature in that they reflect objects as they are, and don`t have the concept of good and evil, and right and wrong. Nevertheless, Confucianists insist that fox`s transformation into man is a rumor or superstition, but, the fox and mirror cannot retaliate man if he has "jyoubusin" which can make God give in to him. In this regard, AKINARI`s fox is regarded as very unique and different from that of Confucianists, or a rumor or superstition of those days.

문학,일본학 : 『신생』론 - <집>의 모럴을 둘러싼 죄의식과 구원 -

이현옥 ( Lee Hyeon Og )
한국일어일문학회|일어일문학연구  45권 2호, 2003 pp. 109-130 ( 총 22 pages)
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『新生』は一般的に`近親相姦の??悔のため``戀愛と金錢から自由になることを求め`執筆されたと見なされている. しかし藤村自身は`私達の時代に濃いデカダンスを目掛けて鶴??を打ち??んでみるつもりで『新生』を書いたと述べた. さてここでのデカダンスとは日本的なデカダンスのことで, つまり日本の<家>の??廢的モラルを意味している. 本稿では『新生』を執筆した등村の意圖に基付いて『新生』が등村の文學作品の中でどんな意義を持っているかを明かすことを硏究の目的とする. 『新生』は日本の<家>の??廢的なモラルが作品全體を支配している中で, 近親相姦を犯した主人公岸本が自分の罪に對する罪意識とそこから脫して救われようとする念願が對立をなしている. 岸本が救われる樣相は三つでとられる. まず近親相姦を理想的な愛の形に昇華する方法と宗敎に歸依する方法があった. しかし愛と宗敎は??廢的な血と封建的な制度が絡み合った<家>のモデルから脫する試みではあったが, 作家にとって現實を支える救援ではなかった. <家>のモラルに絡んだ墮落した血への探求の結果, 自分と同病相哀れむお父さんが狂氣で悲慘な死を向かえるが, 國學の古典精神を精神的な支えにしたことを發見する. ここで등村は生きていく道でなんのビジョンも提示できない個人的な血緣の宿命から離れて國學が提示する民族に目を覺すようになる. 등村にとっては民族に目を向かわせたこの理念が現實をささえる眞の救いであり, 今後作家の進む方向であることがわかった. つまり『新生』は<家>の屬性を銳く描いた『家』から日本民族の近代化を描寫した『夜明け前』への架橋の役をしている. 宿命的な血緣關係から民族という新しいビジョンを向かって進む道を提示しているとこわに『新生』の意義がある.
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