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Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 61권 2호 (2007)
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本硏究は, 『今昔』天竺部の佛傳初頭の第1話~第8話、すなわち釋迦の出世成道にまつわる佛傳の韓日比較硏究を試みたものである。主たる硏究對象は韓日兩國における、まとまった佛傳の最初と言える『今昔』と『十地修行記』である。本硏究の目的は『今昔』佛傳の基本原典と特徵の解明にある。檢討してみた結果, 『今昔』と『十地修行記』の基本原典としては共に同じく十卷本『釋迦譜』が推定された。また、『今昔』佛傳における特徵の解明に努力し, 『今昔』の佛傳は內容と表現において、修道, 苦行, 轉法輪に重点がおかれていること、偉大なる聖者の姿ではなく、佛道を求めて苦難をいとまない眞摯たる求道者の姿として描かれていること等が證明された。
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源太騷動という妹斬首事件を素材で書かれた作品である上田秋成の『ますらを物語』、『死首の소顔』は同じ事件を扱ったにもかかわらず、作家たちが追い求める創作意圖によってその作品の性格は著しい相違を見せながら現われる。渡邊源太の行動を强調した上田秋成の『ますらを物語』は悲壯美のあふれる主人公たちの行動によって、ますらを精神の强調という主題がよく表現された作品で評價することができる。『死首の소顔』は、『ますらを物語』の脚色版という單純な範圍を越して, 『ますらを物語』に現われていない右內役の五藏を再創造することで旣存の硏究で主張されられてきた『ますらを物語』のようなますらを精神の强調ではない、新しく再創造された五藏という人物によって現われる『孝によって示されている道德の問題』と『愛によって表出された結婚の形式という社會規約の問題』、そして、この間で惱む人間の存在と選擇の問題を新しく扱った点が認められなければならない。このような觀点で見れば、五藏と五曾次の對立は、善と惡の對立に單純化して捉えることには無理がある。むしろ五曾次は自分が生活する致富を唯一絶對の價値とする町人世界の倫理を徹底的に守る人で、家父長的な家庭の父親であるが、そのもので惡人ではない。

물어(物語)에 나타난 <성(聖)>,<성(性)>의 금기침범

유정선 ( Jung Sun Ryu )
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禁忌(タブ-)は穢れと聖なるものという兩義性を持っている。禁忌と侵犯の樣相を神話や物語のなかに探っていくと、そこには多くの違反者たちの悲哀の物語が語られている。<聖>の禁忌にあたる信仰的·呪術的な禁忌の樣相はシャ一マニズムや宗敎的な背景のもとに神話で顯著にあらわれている。そのなかで、神婚の對象であり、宗敎儀禮を擔當する齋宮と齋院の<性>は、不淨の穢れとして宗敎的な<聖>の禁忌侵犯に該當する。また、物語の重要な素材となっている近親相姦や人妻に對する<性>の禁忌は、家や社會秩序の維持という立場から倫理的·規制的な禁忌にあたるが、その樣相は道ならぬの戀の構造を通して、登場人物の惱みと葛藤、そして悔悟や罪意識などを描いていく。そこには、禁忌を犯そうとする欲望が文學という虛構の裝置を通して、禁忌侵犯に對する人間の心理的な要求を解消していこうとする意圖が潛在している。しかし、その一方で禁忌侵犯の時、ある靈的な恐怖ばかりではなく、左遷や刑罰制度、そして出家や계のような淨化作用を通して、禁忌侵犯の統制を誘導しているのである。すなわち、<性>の禁忌侵犯には``穢れの<性>``と``罪の<性>``が生成され、それを滅罪させるために계、볼え、出家という裝置が設定されているのである。もちろん, 『宇津保物語』には密通事件に關する詳しい敍述や心理描寫がない。ただ表面的な<性>の禁忌侵犯の言及や倫理的な罪意識の不在がみえる。しかし、それとは異なって『源氏物語』に至っては、『宇津保物語』にあらわれた<性>の禁忌侵犯に關する樣樣な事件が具體的に實行されていく。とくに天皇の女への<性>に禁忌侵犯による王權への挑戰や侵犯は、逆に違反者の恐怖に對する心理描寫や罪意識を通して、かえって王權の聖性を演出したものであると思われる。從って兩作品を通して、禁忌侵犯に關する道德觀念や法秩序の成立という歷史的過程の投影が見られる。

有島武郞『迷路』論 -欲望の異化-

신지숙 ( Ji Suk Shin )
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迷路は『首途』『迷路』『曉闇』の三篇からなっている。アメリカを舞台に日本人靑年Aのキリスト敎からの離脫、それに續く自己確立の過程を描いた成長小說である。筆者は從來盛んに議論されてきた序編と本編との關係を新しい手がかりで追究し、さらに、Aの自己確立の據となっている『力』とは欲望の異化であり、Aの自己確立は『力』の選擇によってなされていくことを明らかにした。まず、『2』では、序編を、聖書に書かれているキリストの受けた試みを原型にした、本編へ進むための通過儀禮の場として位置づけることが出來ることを考察した。Aが풍癲病院で동き、『神曲』の『地獄編』を讀んでいる意圖は、自己を喪失した狂人の地獄か神の恩寵を喪失したアルベリ一ゴの地獄かの選擇を自分に迫るためであった。Aはこの意圖的な試みに加え、圖らずもスコット博士にも試みられることになる。スコット博士は自分は神に詛われた者だという意識に取りつかれた、神の正義を信じる狂人であり、彼自身も圖らずAを試みる役割をした。Aは、『意識して些かの惡でも犯してはならない。』というスコット博士の忠告を、『善惡醜美--僕のあらゆる力を集めて如實に生活して行かう。』という決意で退き、試みに勝った。『自分に戾る』ことを決心し、キリスト敎を離れ、自己確立の旅に出たのである。『3』では、Aの欲望の噴出にスポットを當てた。『自分に戾る』という命題には、價値ある本來の自己が存在するという內密の前提がある。Aが自己確立の據としている欲望を『力』という言葉で異化していることもその證左である。一方『善惡醜美--僕のあらゆる力を集めて』という彼のことばは圖らずも欲望の本質をついている。欲望の世界はカオスである。Aは驚愕せざるを得ない欲望にも遭遇してしまう。しかし、Aは、性欲に引かれ、虛僞を重ねる自分から、他者の弱点を卑劣に利用する惡の欲望から、下層に轉落した人間を怠惰だと無視する高慢から、戀愛のために胎兒に對する責任を放棄しようとする欲望から、それと對峙する欲望へと『力』の方向を轉換する。就中P夫人の妊娠事件はAにとって自分を見極めるテストであったといえる。最後にどんでん返しを食うわけであるが、Aにとって善への欲望を選擇したことの意味は大きい。作品の結末は一見暗く見えるが、Aが胎兒を遺棄する選擇をしたと想像してみると、決して暗くない結末である。欲望のカオスを前に、Aは自分と人間に幻滅しているが、淚をこらえているのは、欲望に不可避な選擇性、つまり欲望は選擇されるものだということにすでに氣づいており、また、自分の選擇に對する信賴が芽生えているからだと思われる。
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大江健三郞において一つの『乘越え点』と言える万延元年のフットボ一ルは、大江の歷史認識をも窺うことができる作品である。本論文では、『ジョン·万次郞』という固有名と『ス一パ一·マ一ケットの天皇』と言われる『朝鮮人』の意味を追究することによって、『百年間をへだてる二つの時代』の連續性を明らかにする。このために、『万延元年のフットボ一ル』において、蜜と鷹が曾祖父兄弟と万延元年の一揆をめぐって論議し、誰が『時代の前方』を見ていたかを爭う際登場する『ジョン·万次郞』という名を、實際の足跡を천ることによって考察し作品における機能を明確にする。それによって、『新知識』『近代』『帝國主義』などというタ一ムが浮き彫りになるが、百年を隔てて、谷間の村には血腥い勾いのする近代によってもたらされた『在日朝鮮人』という『漂流民』が存在している。谷間の村の經濟を掌握している『在日朝鮮人』に付けられている『ス一パ一·マケッとの天皇』という名は、村の情念によって冠せられた名である。作品のなかには、万延元年と一九四五年の夏をめぐって、多くの記憶と證言が飛び交う。しかし、一九四五年夏に關して欠かせない『在日朝鮮人』の證言は欠落している。蜜と鷹は、新しい生活を始めるため、谷間の村に向うが、その空間は歷史と眞摯に向かい合う空間でもある。作者大江は、二つの時代の連續性を認識しているものの、歷史を正視する勇氣がさらに求められる。

투곡(透谷)의 일원론(一元論)과 Schelling

시야존의 ( Yano Takayoshi )
한국일어일문학회|일어일문학연구  61권 2호, 2007 pp. 93-108 ( 총 16 pages)
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透谷末期の自然の槪念は、それまでの透谷の自然槪念と違って物質的自然槪念(nature)に近づいている。そしてそれと共に彼の二元論が、統合に向かうという結末を見ることができる。透谷が生涯、文學活動を通して戰ってきた靈魂と肉體の二元論的戰いは、末期の作品において最後に終結を見るのである。透谷が最後に到達した思想は、心と體の一致であり、彼が始終惱んできた二元的葛藤を統合する一元論であることがわかるのであるが、この一元論はドイツ觀念論を成しとげ、ドイツロマン主義と現代哲學に新しい道を切り開いたシェリング(Schelling)のドイツ觀念論的一元論と類似したものであることがわかる。二元論的觀念論者であった彼らは、二元論を放棄して汎神論的一元論を選んだのではなく、二元論の統合としての一元論に到達したのである。透谷を理想主義者として始まり、死を前にして汎神論者に轉落して生涯を終わったという評價がある。しかし、今回の硏究によって透谷末期の思想は、彼らが言うような汎神論的一元論ではないことが明らかになった。したがって透谷は、作品の上では彼の信念を貫徹したのである。そういう意味で彼は敗北したのではなく勝利した。以上、本稿では透谷末期の一元論がシェリングの觀念論一元論と類似していることを明らかにするに留まる。透谷末期の思想がシェリングの觀念論一元論と類似しているその理由については、次の硏究の課題としたい。

『덴도로카카리야』에 나타난 전쟁 표상 -천황제에 대한 우의를 중심으로-

오미정 ( Mi Jung Oh )
한국일어일문학회|일어일문학연구  61권 2호, 2007 pp. 109-125 ( 총 17 pages)
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本論文では安部公房の『デンドロカカリヤ』(『表現』1949. 8)を考察した。安部の文學はこの作品を境とし、二三年の間に急激に變換した。このような變化の一原因として、戰爭とその結果としての敗戰狀況に對する作者の認識と表象化という觀点を取り上げることにした。<變形談>という表現方法と轉換を、旣存の議論のなかで意外にも取り上げられなかった敗戰下におけるもっとも劇的な變身談であるといえる<象徵天皇制>と關わる部分を集中的に浮彫りにし分析した。安部のテクストにおいて<變形>という主題は、主に超現實主義的な手法、實存主義的な側面から考察され、疎外された人間の形象化として把握されてきた。このような理解もテクストの理解のために有效な手法であることには間違いないが、テクストを時代との關わりのなかで把握するスタンスは弱かったと言える。本論文ではテクストと<敗戰後>という同時代史との交差を重視して考察しようとした。安部の文學行爲はこのような觀点にたってはじめて、日本の<戰後文學>としての特徵と意義も明確になると考えられる。<デンドロカカリや>は、植物人間のように<人間>の不在と喪失の渦卷きのなかで戶惑っていた戰後日本人に對して<人間>の恢復と再生を祈ること、それは戰爭の記憶を蘇らせ、忘却を拒否しようとする主體の行動を扇動する。このような意味で、日本戰後文學が求めていた<ヒュ一マニズム>の可能性を、<敗戰後>という同時代史のなかで眞劍に取り上げていたテクストであると言える。

日本の『モダニズム』少考 - 芸術と科學の關連性-

유재진 ( Jae Jin Yu )
한국일어일문학회|일어일문학연구  61권 2호, 2007 pp. 127-144 ( 총 18 pages)
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この論文は、日本近代文學史における『モダニズム』槪念の見直しを提起するものである。西洋のモダニズムが、文學に限らず、繪畵そして、科學領域での世界觀の變革とも連動して起きた前衛運動であったことを踏まえると、西洋作家やその作品の影響だけで日本の『モダニズム』を考察することには限界があるのではないかと思われからである。まず本稿では、最近の硏究を踏まえてモダニズムの發祥地西洋で芸術と科學がどのような影響關係を見せていたのかを考察した。そして、そのような影響關係一文學と科學の接点一が、西洋のモダニズム受容と共にアンリ·ポアンカレの科學思想を受容していた堀辰雄の文學論で見出せることを確認し、さらに、範圍を廣げ『詩と詩論』に集まった文學者たちの言說から當時の新しい科學が革新に成功した一つのモデルとして言及されていることを考察した。本稿は、科學や芸術、哲學などジャンルを越えた廣い화組みを設定して、日本におけるモダニズム運動を再檢討するための一試みである。

谷崎潤一郞『蘆刈』論 - <時>と<場所>の設定の意味 -

이영희 ( Young Hee Lee )
한국일어일문학회|일어일문학연구  61권 2호, 2007 pp. 145-156 ( 총 12 pages)
5,200
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本稿は、谷崎潤一郞の『蘆刈』においてのふしぎな現象を出現させる<時>と<場所>の秘密を探り、設定の意味について考察したものである。そのために、時間がどう語られているかを、ジュネット『物語のディスク一ル』の中の言說法に關する理論を『蘆刈』の構成に適用してみる。語る順序と『速度』によって分類し、さらに、<時>としての時代、季節、1日中の時間についての分析とともに、<場所>として國、地方·地域、地形などを通し、この小說の『方法』をも考察する。『蘆刈』という作品は一つの架空の物語に仕立てるために『時』と『場所』の設定においては、王朝時代の景勝地、それも夢物語めいた要素を十分含まれている情趣ある水無瀨をえらんでいることがわかる。時間と空間的に異變が起こる場所と、空間が歪む場所で十五夜の名月の晩、離れた時と時、所と所を結ぶ出來事が起きるという不思議な物語への展開を予言していると論じた。そして、流れる時間を意味する川、淀川の中洲という場所は、すなわち時間が結ばれる空間であると分析した。ひきつづき、古來から神聖なもの、畏敬すべき對象として扱われたり、また戀の物語には必ず登場する月が『蘆刈』ではおゆうさまの顔の特徵である『霞』、『雲』などとともに取り上げ、現實性がない神秘的な面を伴っていることを述べ、おゆうさまは手が屆かないところにある事、絶對に結ばれないことを表現していると指摘した。『雲』など別世界にあるお遊さまへの描寫は鷹揚でゆったりした生活スタイルや止まっている時間の流れを非常に遲く感じさせ、美しくて老いないお遊さまを描くのに巧い表現になったと考えさせられる。『蘆刈』でみられる『入れ子構造』や『後說法』、『情景法』とともに『時』と『場所』の設定の秘密、月とお遊さまの存在などは架空の歷史物語であり夢幻的な作品を完成しよとする谷崎の描寫を十分にうかがうことができる。

이부세 마스지 『냉동인간』론 - 우의소설로서의 깨달음의 의미 -

정보현 ( Bo Hyeon Chung )
한국일어일문학회|일어일문학연구  61권 2호, 2007 pp. 157-174 ( 총 18 pages)
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본고는 이부세 마스지가 『냉동인간』 (1934)을 발표당시 불교용어 『돈증보리』로서 명제했던 것에 착안해, 이 작품을 당시 이부세가 마키노 신이치와의 불편했던 관계를 SF소재를 빌려 우의적으로 쓴 소설로 생각해 보았다. 이부세로서는 드물게 SF적 소재를 다루고 있으나 SF소설이라 할 수 없고 단순히 SF적 소재를 이용해 이부세의 심경이나 작가로서의 문학과제를 표명하려한 우의 소설임을 밝혔다. 마키노와는 『말』을 둘러싸고 긴 신경전을 펼치고 있던 때라 이부세의 심경이 편치 않았다. 따라서 이부세와 마키노의 관계에 관한 이제까지의 연구와 작품과의 관련을 고찰했다. 아울러 원제였던 홀연히 우연히 깨달음을 뜻하는 돈증보리의 의미를 작품 속에서 발견하고, 에치젠야씨의 초기문학에서 전환하려던 실패라고 평가한 것과 달리, 오히려 우의소설로 읽게 될 때 작가로서의 문학적 변모를 꾀하려했던 이부세의 적극적 결의가 표명된 것임을 밝혔다. 당시 마키노신이치와 갈등을 겪고 있던 이부세는 마키노와의 관계를 정리하기 위해서라도, 또한 [개인의 추구]에서 [서민의 생활]이라는 공동체를 중시하는 쪽으로 문학과제를 이행해가려는 결의를 위해서도『냉동인간』을 쓴 것이다. 이것은 이부세의 작가로서의 초기작품세계에서에 탈출로의 결의를 나타낸 것으로 공동체인식으로 향하는 과도기의 작품으로도 말할 수 있다. 작품 속『나』는 실험의 성공여부와 관계없이 냉동체가 되려는 것으로, 새로운 현실을 보게 되는데, 이는 작품자체로는 어색한 구성이지만 우의소설로 본다면 이부세 자신에게 다짐하고 있는 듯, 이부세의 작가로서의 적극적 자세라고 볼 수 있겠다. 이부세의 작품계보에서 과잉된 자의식으로 작품을 쓴 초기경향은 1929년으로 끝나고,『단게씨 저택』 (1931)등 서민의 생활이나 공동체로의 시선을 가지고, 이 후『강』 (1931)에서는 서민의 모습을 그리면서도 공동체의 일그러진 모순된 모습을 고발하기에 이른다. 이후 공동체인식의 작품을 쓰게 되는데, 『냉동인간』은 그러한 작가로서의 변모를 표명한 작품이라고 할 수 있다.
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