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Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 77권 2호 (2011)
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近代日本で新しい槪念であった「戀愛」は男女平等を目標とする、肉體關係の排除という認識が强まったのである。この「戀愛」の純수さと崇高さを當時の近代知識人たちは贊美したのである。このような雰圍氣の中で新しい女たちは「自由戀愛」をして「戀愛結婚」をするのが、精神と肉體の關係まで含む完成されている「戀愛」の形だと信じていた。そしてもっと重要なのはそれが「個人」の獨立な自由ということである。新しい女たちは、その自由は個人が解放されていないと獲得できないことだと思い、「人間解放」を主張したのである。近代的な新しい考え方を持っている男性、慶次は戀愛について、自分の妻の問題になると、前近代的な思考と近代的な思考の間で惱んでいたのである。でも、龍子は惱んでいる夫に對して理解するより自分の主張と自由を得ようとする。近代的自我の覺醒という問題を戀愛の自由を通して求めようとした努力の一つの形である。それは當時の「포烙の刑」の論爭のように立場の差であることと、まだ社會では納められない限界のある問題点も持っている。俊子文學においてフェミニズム文學の糟髓に讀まれる「포烙の刑」は戀愛が文學作品の中で市民權を得たと言える。同時に近代文學の持つ個人の尊重を再び確認させる作品であると思われる。龍子は島崎藤村の「家」に現れる夫の從屬的な存在に表出されるお雪とは懸隔な差を見せながら、一步進んだ女性の主體的な姿をみせてくれたのである。このような龍子の主體的な新しい女の面貌からも「포烙の刑」の評價をすべきであると思う。
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本稿は旣存の先行論文を通じて、<娼婦型-母婦型(良妻型)-母性>というふうに發展、歸着してきた谷崎潤一郞文學の女性像を再考してみたものである。すなわち、一般に言われる類型的な女性像から脫して、作品の中の女性が物語の裏面において自分の境遇を認識し、內面的に成長して、相手の男性を壓倒していく谷崎流の女の物語を追ってみたのである。その過程で、彼女たちの有り樣が、男に君臨する魔性の<女>としての生き方、母婦型の妻、あるいは理想的な母性像などの區分を乘り越えて、自らの人生の方向を選び取るだけの自主性を持つ女性像に終結していることが分かってきた。というのも、谷崎文學は出發期から大正期において、いわゆる<娼婦型-母婦型>という女性像の對比が定着し、以後その對照的な女性像がパタ―ン化して再生産されることが多かったが、(物語の裏面で)社會的に成功する「痴人の愛」のナオミと自らの半生を顧みる『赤い屋根』の繭子の登場によって、娼婦型の女性の生に對する反省や自覺があらわれてくるようになった。しかも、昭和期に入ってからは、「卍」の園子と光子のように、,男性に經濟的な援助を受けなくても裕福に暮せる女性や、「蓼식ふ蟲」の自ら離婚を決める美佐子、そして、夫の可愛がっている猫を利用して夫の愛情を奪い合おうとする「猫と庄造と二人のをんな」の二人の妻など、旣存の類型的な女性像から拔け出て、多面的で、より寫實的な女像に發展していっているのである。以後、昭和20年代の「少將滋幹の母」に至っては、自ら<女>としての生き方を選ぶ<母性>の出現を告げながら、谷崎文學の女性像は完結する。わけても、「少將滋幹の母」の前半を貫く北の方の「讓渡事件」の異相を把握する過程で、母を取られた滋幹の思慕の對象としての<母-北の方>の虛像と、冷靜に男性を分別し、時の權力者の左大臣を選ぶ<女-北の方>の隱された實像がないまぜになっている点はもっと注目されてよい。以上のように、谷崎文學における女性像の變化を、「美」の對象から自覺する女像への變貌と多面的な女性への發展、<女>の道を選ぶ母性像の出現というふうに整理するならば、最初マゾヒズムの男の物語を浮彫りにして出發した谷崎文學が徐徐にそのマゾヒズムの對象であった女の成長の內實を描く方向に移っていったのが分かる。
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本稿では、戰後日本における「アメリカ」という問題を、三島由紀夫の「音樂」(「婦人公論」、一九六四年一月~十二月)を取り上げて、テクストにおける「精神分析」を通してあらわれる、當時の日本における「文化」の在り方について考察している。戰後日本において「精神分析」は、これまでの「日本人」と「アメリカ人」の表象を、主に「性」という觀点で照明し直して變えるものとして機能するが、その一方で、一九六○年代には「高度成長」という名の下で行われた「アメリカ化」によって生じた日本人の「心」の病を、アメリカ式の精神分析という「知」を通して治療して、もう一度「アメリカ」化しつつある「日本」に連れ태すという機能する。「精神分析」は、「アメリカ」や「日本」といったナショナル·アイデンティティを超えた、「近代」的な知として位置することによって、日本における「アメリカ」化をより安定させたが、この過程で日本の「文化」と摩擦をも起こしていた。「音樂」において三島は、「不感症」にかかった「麗子」を通して、「アメリカ化」に「不適應」であった「日本人」の可能性を手探ろうとしたものの、そのような人人が集まる「山谷」は、日本の固有の「文化」があるのではなく、「動物的な悲慘さ」或いは「文化」とのかかわりが完全に切れた「暴力」しか殘っていないことを見せてくれるだけである。以上のような考察を通して、三島由紀夫の「音樂」は、戰後日本における「アメリカ化」が、目に見える「物」を通して構成される「文化」だけではなく、目に見えない日本人の「心」においても深く影響を及ぼしていることを、そのあいだに機能する「精神分析」という「知」を通して批判的に問題化した作品であるととらえることができる。
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近松門左衛門の「日本西王母」の原作とされる「南大門秋彼岸」の揷繪は當時の舞台演出の樣子が窺えるものとして、淨瑠璃史において貴重な資料とされる。本稿ではその揷繪に描かれた「邯鄲之枕」の場面について考察を進めた。からくりとして關心を集めてきた同場面には、日本における「邯鄲の枕」の受容史において、興味を引くものがある(本稿では故事を指す場合は「邯鄲の枕」とし、「南大門秋彼岸」の「邯鄲之枕」と區別した)。輪王の王位に迎えられた主人公の豊舟が、輿に乘って進む模樣を描く「行列のからくり」である。まず、先行硏究に基づきながら「行列のからくり」の演出について再檢討した。先行硏究では、現在大津祭で傳承されている「源氏山」との類似性が指摘されてきた。本稿では、「からくり花제末廣扇」の「邯鄲」の繪盡しを取り上げ、時計を利用したからくりであることを推論した。次に、「行列のからくり」が「邯鄲之枕」の中に取り入れられた所以を探った。「邯鄲の枕」は日本において樣樣に脚色されたが、能の場合、舞台演出の面で日本獨特の工夫がなされた。その一つが「玉の輿」である。謠曲以來、「邯鄲の枕」を題材とする作品の中には、しばしば「玉の輿」が登場する。「南大門秋彼岸」の「邯鄲之枕」は謠曲の演出を受け繼ぎながら、「玉の輿」のイメ―ジの表現に朝鮮通信使の行列を當てはめている。ところで、「南大門秋彼岸」の作者はどこまで、朝鮮通信使を意識して「行列のからくり」を創出したのであろうか。本作が上演された元祿期以前より旣に祭禮の中に取り입まれていた「唐人行列」からの影響を考えることが出來る。一方、繪畵や古學作品においても「異國人」の表現に通信使の姿や行列が借用されていることに注目したい。おそらく「南大門秋彼岸」の作者も、同樣の認識のもとで通信使のイメ―ジを借用したと考えられる。言わば、「行列のからくり」は通信使行列の變容の事例と言えよう。朝鮮通信使の行列を取り入れることによって、「行列のからくり」は從來の「邯鄲の枕」の趣向に新味を與え、また當時の人人の異國觀の一面を窺わせているのである。
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日本國立國會圖書館藏書の「寶曆物語」は總目錄がなく、卷の始まる部分と終わる部分が一定しない不完全な形の實錄で、日本東京都立中央圖書館藏書の「和漢始遺」(<特別買上文庫 3907>)·「和韓拾遺」(<特別買上文庫 3908>), 大韓民國國立中央圖書館藏書の「和韓拾遺朝鮮人來聘」と體制が似ている。その中でも「和韓拾遺朝鮮人來聘」とは內容と構成がほとんどそっくりである。「和韓拾遺」諸本の筆寫時期は大坂西本願寺で事件が發生した1764年から短くは1850年まで長くは1884年まで引き續き、寫された實錄である。また「寶曆物語」に隱された"和韓拾遺"の書體が卷4~卷10の本文の書體と同じ点と「寶曆物語」卷10の終わりに見える"和漢拾遺物語大尾"という文は「寶曆物語」が「和韓拾遺」であることを立證する明確な手がかりとなる。「寶曆物語」は卷1~卷3と、卷4~卷10の筆者は同一人物ではなく, また、卷10の最後の部分に"和漢始遺物語大尾"の書體が本文のそれと違うことから「寶曆物語」は少なくとも二人以上が筆寫した實錄である。崔天宗殺害事件を素材にした實錄硏究は「寶曆物語」と「朝鮮人難波の夢」を中心に成り立って來たが、これから「和韓拾遺」は「寶曆物語」より優位の立場で硏究されなければならない重要な實錄であると思われる。

일본문학(日本文學),일본학(日本學) 편(篇) : 北村透谷의 뢰옥관념(牢獄觀念)과 연애(戀愛)

야노다카요시 ( Yano Takayoshi )
한국일어일문학회|일어일문학연구  77권 2호, 2011 pp. 103-118 ( 총 16 pages)
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透谷にとってこの世は、牢獄だった。牢獄とは壁で仕切られた暗く孤獨な地獄のような世界を言う。そのため、この世を去ることが彼にとって解放であり、願いであった。そのような彼に唯一の希望は、戀愛だった。彼にとって戀愛とは、男女の精神的愛を言う。精神的戀愛は、人間の理想であり、これはあたかも暗い牢獄を照らすともしびのようなものである。透谷は牢獄のような生にあって戀愛に賴り、自分の生を全うしようとしたのである。しかし、意外にも現實の彼の戀愛は、自分でも知らぬうちに悲戀と化していた。處女を思慕し、憧憬した彼の心には自ら罪意識が生じ、自分の心の中に牢獄を作ってしまったのである。心は自分の中に戀人が入れないように壁を作って塞いでしまった。このように彼の心は自ら彼女を遠ざけたが、しかしそれは彼の完全なる孤獨を意味していた。この世という牢獄にあって戀愛という唯一の出口を自ら閉じることで生の希望を失ってしまったのである。薄い光さえ失ってしまった牢獄は、暗闇の死の世界と化しむ。このように透谷にとって戀愛は彼自身の救いであった。靈が永遠であるように精神的愛も永遠の愛を意味していた。透谷はこのような靈を求めて生を維持していた。しかし、「我牢獄」を見てもわかるように「現に於ける我が悲戀」は、意外なる結果をもたらした。理想であるはずだった精神的戀愛が現實のものとなった時、自分の心の中に牢獄を作るという悲劇的結末となったのである。これが透谷が「罪」である。精神的であれ、透谷が現實に松子を愛することを透谷自身許さなかったのである。
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本稿は「청령日記」における「人の心」と「わたくしの心」という對比する表現をキ―ワ―ドに、道綱母の不幸意識の基底について考察してみた論である。道綱母の結婚生活は平安時代當時の社會的な通念からはそれほど不幸ではなかったということは、上卷に記述された記事などから讀み取られる。それにも關わらず、世の中と他人という「他者」の視角とは異なり、自らの結婚生活を不幸なものとして捉えている作中話者の意識がどこに根差しているのかを、兼家の心の行方に悶悶とする道綱母の心に着目して考察してみた。「청령日記」に「人の心」という表現は7例あるが、すべて夫の兼家の心に用いられている。そのうち6例は幸福な結婚生活に關する記事の多い上卷に用いられており、中卷に用いられている1例は969年東三條院の新邸入りをめぐって道綱母の心境が絶望的であった時期に用いられている。その後「人の心」という表現は用いられなくなる。このことから、道綱母が自分に對する夫の心をある程度信じて期待をかけていた間は「人の心」の行方に悶悶とし不安がっていたものの、夫の心の程度が明らかになり現實を認識するようになった後は「人の心」という表現も用いられなくなったということがわかった。要するに、道綱母は結婚してまもなく「わたくしの心」とは異なる「人の心」の行方に氣を유みつつ自らの不幸意織を增幅させていたが、その意識の中には夫に對する不信感と共に期待をも依然として持っていたと言えよう。なお、道綱母の不幸意識を芽生えさせた夫の心に對する不信は先天的なものではなく、求婚の過程から赤裸裸に現れた結婚への期待と現實との落差に据ったものであり、人一倍の道綱母の自意識もまたその不幸意識をより深めたと思われる。
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本稿では、「江戶名所國會」に引用された江戶の俳人寶井其角(1661-1707)の俳諧作品に焦点を絞って多樣な角度で作品の意味を詮索した。江戶に生まれ14歲で芭蕉に入門し、俳諸宗匠として江戶を中心に活躍し、多數の作品を殘した其角の作品と「江戶名所圖會」に引用された其角の作品を比較し、「江戶名所圖會」での其角作品の役割ど效果について檢討した。また、名所案內記である「江戶名所圖會」に其角の作品を揷繪とともに收錄することによって得ようとした著者月岑の意圖についても考察した。その結果を整理すると次のようである。收錄した作品は、二つに分けられる。一つは、名所案內部分に登場する作品であり、もう一つは揷繪とともに登場する作品である。前者は名所「魚市」のように揷繪が魚市を中心に描かれ、其角の作品は直接的に關係はないものの、魚市に向かう漁船と漁師の姿が詠まれていて、揷繪ではうかがえない活氣を與え、名所のイメ―ジを擴大させる役割を果たしている。これに對して後者は、同一場所で詠まれた作品を揷繪とともに配した場合も、名所と全く關係ない作品を揷繪に配した場合もあった。すなわち、名所藥師堂、品川驛、淸水堂、駒形堂、そして三圍稻荷社では其角が直接名所を訪ねて詠んだ作品を收錄することで、讀者に名所のイメ―ジを一層リアルに浮き彫りしている。他ならぬ俳人である其角も訪問し、俳諧を詠んだ名所であるというイメ―ジを强調し、江戶へ行けば是非という、興味を催す效果を釀し出すのである。しかし、特に名所と關係ない作品を收錄した名所「大門通」は、其角自身は江戶という大都會を背景に詠んだ作品であるが、「江戶名所圖會」の著者は金物屋と馬具店が倂ぶ大門通に配することによって遊郭と佛敎法具としての鐘との間の不調和から生じるアイロニ―を釀し出している。すなわち、元の作品には含まれていない意味を揷繪と調和させ、讀者に新鮮な面白みを傳えるのである。結局、著者は近世時代江戶で活躍した其角の作品を「江戶名所圖會」に收錄することによって、江戶の隅隅のイメ―ジを一層りアルに傳え、强化することで、讀者に名所に關する好奇心と興味を刺激したのである。實際、江戶のあちこちで暮していた其角と彼の詠んだ俳諧作品こそ、讀者に江戶の名所を紹介し、案內する時、最適の道具であったのである。
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この論文では、日本で作成された佛敎傳來をめぐる樣樣な資料を分析し、百濟から傳來した佛像に對して强い關心が불われている点、そしてそれが四天王寺や善光寺の緣起に反映して、同時代に廣まっていた三國史觀とは異なる、百濟からの傳來を强調する史觀の展開につながっていたことを確認した。これらの資料で特に强調されているのは佛像の傳來で、これは、韓國や中國の佛敎傳來說話にはあまり見られないか、見られたとしても日本の緣起のように大きな關心が불われていない部分であった。こうした日本の資料で特に注目されるのは、この佛像が「金銅」あるいは「純金」と形容されている点であった。佛敎は黃金に光り輝く佛像で象徵されていたのだ。そしてそれは、百濟から傳えられた佛像だったのである。
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「日本永代藏」の序文たる「卷1-1」の卷頭一節で提示される致富條件は若い商人には中中實踐されがたい實存の問題であった。儉約、健康、才覺、元手、予測不可能な幸運(神佛への現世祈願)等の致富條件は複合的に關われておりその裏面には人間の成熟期から老年期における致富と老いとの相關性が見られる。これを描寫する作者の創作意圖をどう捉えるべきかについて本稿では「日本永代藏」「卷4-1(祈るしるしの神の折數)」、後家が主人公に登場する「卷1-3(浪風靜に神通丸)と「卷1-5(世は欲の入札に仕合)」、典型的な2代沒落談である「卷1-2 (二代目に破る扇の風)」「卷3-2(國に移して風呂釜の大臣)」「卷5-3(大豆一粒の光り堂)」等を中心に考察を試みた。作者は致富と老い(年を取るという意味)との連關性を直視している。當時では老年期に當たる40代の歲が內包する老いの肯定的要素は金錢そのものに執着する致富への懷疑や不可知な來世を認識し人生を觀照する成熟さにほかならない。これはまた致富を家業において代代に續けさせられる知惠であり、世俗での金錢への還元のみを志向する現世祈願的信仰への不安を認識することでもあった。作者が彼の第一作の作品「好色一代男」を刊行したのは43才の1684年、「日本永代藏」を出したのは47才(1688年)、實に老いの頂点期であった。「日本永代藏」において致富の條件としての元手と信仰という矛盾的で重層的な當代の現實を<面白おかしく>虛構しようとする方式、卽ち若さに起因する盲目的な致富追求や未熟さによる失敗談や宿命的な沒落談等を數多く虛構化することによって致富における老いの意味を寫實的に形象化できたのは老年期にあった西鶴にとって自然な創作方式であったと言えよう。
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