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Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-2552
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 84권 2호 (2013)

심포지엄 : 『東海道中栗毛?次馬』三種の著作姿勢について

강지현 ( Ji Hyun Kang )
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같은 제목 다른 책인 로분글·요시나오그림의 합권A, 로분글·요시이쿠그림의 채색목판화B, 가쿠테글·요시이쿠그림의 합권C를 중심으로, 출판된 다른 <히자쿠리게물>작품군과 더불어 그 그림과 글을 상세히 비교분석함으로써 다음과 같은 저작 태도를 규명할 수 있었다. 첫 번째,「하마마쓰」장면처럼 원문에도 없는 어휘까지 완전히 일치하는 점으로 보아 채색목판화B의 작자 로분은 자작 합권A를 곁에 두고 보면서 모사했을 것이라는 점이다. 장르는 다르지만 같은 작자에 의한 같은 제목의 작품인 이상, 충분히 있을 수 있는 집필 태도라고 생각된다. 두 번째, 한편 채색목판화B는 잇쿠의 원작이야기 및 여타 다른『도카이도추 구리게노야지우마』와는 무관한 창작된 장면도 합계 56도판 중에서 32도판이나 되므로, 독창성은『도카이도츄 쿠리게노야지우마』3종 가운데에서도 가장 뛰어난 작품이라는 점도 동시에 지적할 수 있다. 세 번째, 가장 후발 작자인 가쿠테 하루노부가 합권C를 제작할 때, 로분글 합권A에서 어떤 영향을 받았을까 하는 관점에서 각 장면을 자세히 고찰하면, 애초의 시원인 잇쿠글의 원문을 세분화해서 발췌한 것에 지나지 않는 복제 경향이 두드러지는 합권A와, A의 영향을 받으면서도 잇쿠가 창작한 일화를 개작하고자 하는 경향이 두드러지는 合?C라고 하는 저작자세도 추출할 수 있었던 바이다.

심포지엄 : 江戶新本の烏滸の笑い -笑いの方法および質の變化をめぐって-

금영진 ( Young Jin Keum )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 93-111 ( 총 19 pages)
5,900
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본 논문에서는 바보(烏滸)의「화내는」인물감정을 이용한 웃음의 방법의 한중일 비교를 통해 본 에도 하나시본(江戶?本)의 특징 및 웃음의 질적 변화에 대하여 고찰해 보았다. 그 결과, 중국과 조선소화 및 근세이전의 일본의 설화 등에서 지금까지 보아온 종래의 화내는 바보(烏滸)이야기의 웃음과는 방법 및 질에 있어서 구별되는 새로운 웃음이 에도 하나시본에 나타나게 되었다는 사실을 알게 되었다. 그리고 이 새로운 방법(「화내게 만드는」바보의 인물감정을 이용)의 증가와 더불어, 종래의「화내는」 바보이야기의 감소에 수반한「재치담화(頓知譚化)」 및 「감탄하는」「기뻐하는」 바보이야기의 증가가, 결국은 에도 하나시본에 있어서의 웃음의 질적 변화를 유발하였다고 여겨진다. 이러한 인물감정을 이용한 바보이야기의 웃음의 방법 및 질의 변화들을 통해, 우리는 일본인의 웃음의 시대적 변천양상 및 그 특징을 확인할 수 있는데, 에도 하나시본에 새로 나타난 이러한 웃음은, 오늘날 일본의 만자이(漫才)에서 흔히 볼 수 있는, 화내는 정상적인 인물과 화내게 만드는 바보라는 전형적인 인물구조에도 그대로 투영되어 나타난다고 할 수 있겠다.

심포지엄 : 일본문학에 나타난 <여성의 얼굴> 고찰 -헤이안시대를 중심으로-

김영 ( Young Kim )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 113-130 ( 총 18 pages)
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從來、日本古代の化粧法や女性の顔に關する論文は主に古代中國の影響のみに注目し、硏究されてきた傾向が强いが、本論考では地理的、文化的に近くてより活發な交流を進めていた古代三國との影響に注目してみた。日本女性の化粧文化について、高木氏は日本獨特の「隱れ文化」であると特微づけているが、これは古代家父長的、男性中心的思考から生まれた性差別化された支配方式の一種であろうと考えられる。?史上、美人の原型は男性の言語によって續述され、男性は自分の欲望を女性の顔に投影してきた。『紫式部日記』のように、女性の手書きによる女性の顔に關する批評と描寫はすべて女性を對象にしている。紫式部は當時優雅で可憐な美意識を演出する社會風潮に從い、女性のイメ一ジを類型化し、規範化しているのである。特に、長くて黑い髮の毛は從來女性性というジェンダ-を構成する要素として定着したことを現わすといわれているが、もう一つ看過できない重要なことは簾と扇に隱されている女性の身?の中で唯一男性にみえている部分であるというのである。?ち、簾の下から見え隱れしている髮の毛は外の世界への道でもあり、男性世界との接点でもあるのである。

심포지엄 : 『源氏物語』에 나타난「長恨歌」의 수용과 변용

김종덕 ( Jong Duck Kim )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 131-148 ( 총 18 pages)
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本稿は『源氏物語』の「長恨歌」引用と變容について考察した硏究である。特に桐壺天皇と桐壺更衣、光源氏と夕顔、紫上、薰と大君、浮舟が死別あるいは離別するくだりで、如何に「長恨歌」が引用·變容され、物語の主題を作意しているのかを考察した。『源氏物語』が「長恨歌」を引用しながら、新しい變容が起こる主な場面は次のようである。桐壺天皇は桐壺更衣が亡くなると、似ていると言われる藤壺を入內させる。源氏は藤壺への慕情が不可能になると、面影の似通う紫上と結婚し、女三宮を正妻として六條院に迎える。また薰は大君が亡くなった後、「ゆかり」の人物で合う浮舟と結ばれる。このように似ている女性が身代わりとして登場する主題が「長恨歌」には現われていない。すなわち、源氏は藤壺が亡き母と「いとよう似たまへり」ということで、?しがなり理想像として?しがる。薰は大君と似ている浮舟を垣間見て「ゆかりなどにてだに、かばかり通ひきこえたらん人」であったら妻に迎えてもいいと思うようになる。『源氏物語』には主人公が死別·離別した女性を?しがる「長恨歌」の踏まえている場面が多い。ところが、『源氏物語』の桐壺天皇、光源氏、薰はそれぞれ死別·離別した女性の顔と似ている「ゆかり」の女性を渴望することになる。すなわち、『源氏物語』では「長恨歌」を引用しながら、「ゆかり」の人物と新しい?に發展するという奕容が行われている。

심포지엄 : 『가게로일기』참배여행의 모성원리

허영은 ( Young Eun Huh )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 149-168 ( 총 20 pages)
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??日記>には數回にわたる物詣の記述があり、その旅行の經驗は作者道綱母が夫の兼家とのままならぬ結婚生活から逃れ、自分を客觀視する契機となった。その一方、彼女は物詣を通して、新たなエネルギを充電しているが、それは彼女の訪れた所がすべて生命力で滿ちている聖地であったからである。例えば彼女が二回も參拜した初癩は、``こもりく(窪んだ)``の洞窟の形をしていて、母?を象徵する信仰地であり、石山寺や般若寺も磐や淹のような生命力を象徵する觀音信仰の聖地であった。また、唐崎?えは湧き出る水の生命力や、靜まった靈魂を振り起こす``タマフリ``のための行事であり、ここで?えをすると子供が得られるとの古い民俗信仰もあった。本稿ではこのように道綱母が參拜していた觀音聖地や?え所の持っている生命力の源泉としての母性原理について調べてみた。結局、道綱母にとって物詣は、母性原理で充滿している觀音信仰の聖地を訪問したり、聖なる河で?えをすることによって新しい生命力を得る貴重な機會であり、その根底には子供を持ちたいという彼女の願望が?んでいたと言える。

심포지엄 : 인간실격(人間失格)』에 내재된 이항대립 연구

김용안 ( Yong An Kim )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 169-192 ( 총 24 pages)
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太宰治の『人間失格』という小說は、作家が自殺するわずか一ヶ月前に自分の慘憺たる靑春時代を省みながら書いた小說である。內容が切迫したものであろうと思われるが、そこには滑稽とユ?モアが溢れた重厚な作品になっている。手記の特異な形式で成り立っているこの小說は、二項對立という構造からなっていて解もいろいろな形で可能である。甚だしくは逆の解釋さえできるのが興味深い。單語一つが多義に跨っていることも特徵の一つであり、これも『人間失格』ならではの?み方だと思われる。いわゆる立?的な?みが可能であることも注目に値する。反語の醍?味が思う存分生かされた傑作であるほか言いようがない。大家の太宰の手際が遺憾なく發揮された所?である。なぜかと言うと世間を風刺したり、皮肉ったりするかたちとしてはこの方法に勝るものはないからである。作者は慘憺たる失敗の報告書を重い瞋?の言葉でなく、笑いの言葉で?く表したのである。それが本?の意味でのお道化かも知れない。具?的な例は次の通りである。題目の<人間失格>という語彙からみると、手記には葉藏が自分を失格だと言っているが、それとは裏腹に、お互い欺きあいながらも、それにすら?づいていない一般の人間の方が失格ではないだろうか。また、世間の人には身を染まらせずただそれを見詰めている葉藏の方がかえって人間の資格をちゃんと備えているのではないだろうか。この手記では?の意味での人間失格は書き手の自分ではなく、自分を?んでいる世間の人?であるのではないかと讀者に氣づいてもらいたいかのように反問している。葉藏は口癖のように言葉では世間の人透が難解だと言っているが、實際には納得がいかないどころか、葉藏にとって世間の人?は透けて見える存在のようである。この小說がもし對話の形を取っていて、葉藏の周邊の人にも話せる機會を與えることができたなら、葉藏の存在が難解だという意見が殺到するにちがいない。お道化も表向きには葉藏が自分の人間に對する最後の求愛だと書いてあるが、それはまったく同じように自分自身への求愛でもあるのである。上のようなことは二項對立の構造から小說を照らしてみて分かったものである。
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本稿の目的は、渡邊霞亭の「渦卷」が趙重桓によって?案小說「續編長恨夢」として紹介される過程において起った?譯の屈折現象を考察し、その考察を通して作品に託した趙重桓の文學內外的意圖を明らかにすることである。まず、本稿では、「續編長恨夢」と「長恨夢」との比較を通して趙重桓の?譯、及び?案の方法について追究した。趙重桓は原作の異なる「續編長恨夢」と「長恨夢」を連?性のある作品として仕立てるために文學內外の?置を活用した。文學內の?置とは、前編の「長恨夢」に引髮き ``李守一``、``沈順愛``、``白樂觀``、``崔万慶``等、作品の主要人物を再度登場させることで、前編との間に連續性を持たせることであった。文學外の?置としては、まず、「續編長恨夢」の廣告文を利用し、これが「長恨夢」の後日談であることを强調した点が學げられる。また、「續編長恨夢」の連載に先立ち、前編「長恨夢」の粗筋を要約して載せることによって讀者に二つの作品が?がっているという印象を植え付けた点が學げられよう。「渦卷」を原作とする「續編長恨夢」を「長恨夢」と連續性を持つ作品に仕立てようとする試みは、結局?譯の意圖された原作の屈折を齎した。「渦卷」を「續編長恨夢」として?案する過程において趙重桓は、まず、「渦卷」の作中人物と舞台を徹底とした朝鮮のものに?えている。また、趙重桓は?案の過程において、二つの作品に連續性を持たせるために、原作には無い續述を加えたり、あるいは削除したりした。原作への削除は、``家``、``相續``、``血統`` に關する敍述が多い。「渦卷」の脇役に關する敍述もその多くが削除されている。それらの人物は、原作において主人公數江の自立という主題を具現するのに重要な役割を?っている。こうした添削の結果、「續編長恨夢」は、從順な順愛に焦点を合わせた作品に奕えられた。だが、それは原作の本來の構想とは掛離れたものであり、當時の朝鮮の讀者からも歡迎されなかった。趙重桓が「渦卷」を「長恨夢」の續編として選んだ理由は、日本の興行性のより確實な作品を選ぶことで朝鮮においても成功を收めたいという意圖があったからではなかろうか。それは日本の大衆小說によって朝鮮の讀者愉樂を提供しようとした『每日新報』の意圖とも通じ合うものであったと考えられる。

심포지엄 : 한일 <신여성>작가의 노년 표상 -幸福(宇野千代)과 탑돌이(최정희)를 중심으로-

명혜영 ( Hyae Yung Myung )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 221-239 ( 총 19 pages)
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「個人」と「差異」をテ卷マに一き起った第二のフェミニズム運動。1970年代、日韓においてもその世界的な動きに直面していた。しかし當時兩國では、政治的時代狀況や土台の違っていたため、論議が活發に行われた日本とは違い、韓國ではその情緖は應がらなかった。その狀況を目の當たりに、日本と韓國の<新しい女>出身の老作家は小說を通じて物申すまでになる。宇野千代は『幸福』で、新しい女として?得した「今、ここ」を生き拔き、一個人としての自立した女性像を提示する。主人公の一枝はその名の通り、結婚生活のなかでも自我を探し求め、十一軒目の家を立てるなど最後までクリエ一ティブな生き方を堅持する。そしてその結論として自分の人生は「幸福」だったと回想する。現實の上でも宇野は常に幸福な人生を追い求めていた。その一方、チェ·チョンヒは『搭めぐり』で、一生を通して足枷になった共同?と「母性」に異議を唱え、「個人」として生きづらかった暗い時代を表象してみせる。そしてもう一つ女性を縛る要因として儒敎という古い傳統を指摘する。主人公の寶蓮は、個人的な欲求は何一つ實行できず、もっぱら家のため子供たちのために?くした人生を生きざるを得なかった。最期を迎えた彼女は、そうした我が人生を振り返って淚しつつも、輪廻を信じて笑顔でこの世を去っていく。1970年代という時代を反映して書かれた二人の老作家の小說には、今を生きることがもたらす「老い」の豊かさを想像させる樣?な言葉がちりばめられている。

심포지엄 : 天國と地獄から見た『蓬萊曲』の解釋

矢野尊義 ( Taka Yoshi Yano )
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 241-257 ( 총 17 pages)
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本稿は、『蓬萊曲』の全體像を矛盾なく總合的に把握するために『蓬萊曲』における天國と地獄の意味を明らかにする。これによって『蓬萊曲』の筋を再度檢討することができよう。戰後『蓬萊曲』に對しては多くの專門家たちの硏究がなされてきたにもかかわらず、今もってなお疑問點が多く、筋についての解釋すら一樣の理解が示されていない。『蓬萊曲』全體に對する讀みは、難解なものとして殘されたままである。主人公素雄はこの世を去るために蓬萊山に登る。この世は、惡魔に支配されている地上地獄だからである。彼は蓬萊山の「生命の谷に自分の魂を投げ入れ」て肉體を脫ぎ、永遠の生命を得ようとする。しかし、彼が「生命の谷」を前にした崖に着いた時、彼が出會ったのは神ではなく惡魔だった。素雄は惡魔と戰わねばならなくなる。ここで不思議なのは、素雄が地獄へ行くとつぶやきながら死を呼ぶところである。肉の生命を脫した素雄は永遠の生命を得ることができたのであろうか。答えは否である。天國は神の愛の世界であり、地獄は惡魔の世界である。惡魔が素雄に女性の化身を見せたように蓬萊山で素雄が見た昔の妻である露姬の靈は、惡魔の化身であった。惡魔が作った幻にだまされた素雄は、天國ではなく地獄へ行くことを口ずさみながら死んだ。このようにして素雄は、惡魔の愛に捕えられて地獄の道を行くことになるのである。素雄は、自ら地獄を選んだ結果になったのである。

심포지엄 : 源氏物語の享受作品の呼稱について -"須磨源氏" を中心に-

山口優子
한국일어일문학회|일어일문학연구  84권 2호, 2013 pp. 259-278 ( 총 20 pages)
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源氏物語の本文ですら搖ぎら始めた今日、源氏物語の影響を受けたとされる後世の作品群も、獨自の价値を今後一層、積極的に見いだすべきであると考える。そのような觀点から、源氏物語の享受作品について、光源氏、光君という源氏の呼稱がどのように記されているかを考察した。その際に、中世の作品で、源氏が靈となって登場する言曲須磨源氏を中心に考察したが、享受というのは影響を受けたもの全てを指すという觀譯点から、ここに?譯作品も含め、また今一度光、という語のついたこの呼稱そのものの再儉?を行うなど、?合的にこの二つの呼稱について論じた。源氏物語では、首卷桐壺卷の途中で、世の人が稀有な美質を愛で、帝の寵愛の深い藤壺の宮と?び稱する形で幼い源氏を光君と稱したとあり、桐壺卷末では、高麗の相人が觀相の際、光君と稱したともある。そして次卷の?木卷冒頭、唐突に光源氏と記されているのである。これに?し、須磨源氏では、二つの現在儉分し得る本文を見ると、高麗の相人の觀相の折には、光君という言葉は出てこず、それ以降光源氏と呼ばれた、という文言のみがある。そして藤裏葉卷で、?華の絶頂に到達した時点で初めて、光君と呼ばれたとあるのである。つまり源氏物語では光君→光源氏という呼稱の登場順序であるのに對し、須磨源氏では光源氏→光君となっているのであり、このことの意味するところを、前述のような多角的な視点から考察したものである。
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