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일본어문학검색

Korean Journal of Japanese Language and Literature


  • - 주제 : 어문학분야 > 언어학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 1226-0576
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 49권 0호 (2011)

近世·近代における 「措大·窮措大」考

나공수
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 1-23 ( 총 23 pages)
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本稿では、日本の近世や近代における比較的低頻度の語と思われる「措大·窮措大」をめぐって考察した。「措大·窮措大」は、中国で主に詩や俗文学に用いられていた。日本においては、近世後期以後、「措大·窮措大」が本格的に用いられるジャンルは「繁昌記」である。近世後期から明治初期にかけて刊行された「繁昌記」に特に多く用いられているが、世相を批判した形の繁昌記であるだけに「貧乏」の様子が多く描かれている。その一断面として「措大·窮措大」が良き材料になったものと思われる。しかし、繁昌記では「措大·窮措大」の使い分けがあったらしく、「措大」はマイナスイメージとして描かれ、「窮措大」は他人に対しては「卑しめ」、自分に対しては「謙遜」のイメージが強かった。近代(主に明治期の文学)の普通の文学作品では、「措大·窮措大」が繁昌記の「窮措大」の例と同様、一般的に「卑しめ·惨めさ」を表わす場面が多いが、自分に対しては「謙遜」の意味で用いられている場合もあった。「措大·窮措大」と殆んど同じような「貧〜·寒〜」を語基とする語も多数ある。 このように、「貧〜·寒〜」を語基とする語が多く用いられていたにも関わらず、難解な漢語である「措大·窮措大」も用いられていたことは何を意味するのだろうか。それだけ、近世や近代の文人は中国俗文学に関心を寄せていたということであり、造詣も深かったことを意味しているのである。それにより、近世や近代の文人は中国俗文学に見られる言葉にも執着し、自分の文学における言語世界に反映させたものと思われる。日本の近世や近代に中国俗語が用いられていたことは、表記の面から見ても、漢字使用の世界を多様化してくれた要因であったわけである。

韓国人日本語学習者を対象にした日韓両言語の作文の比較 -4コマ漫画を題材にして-

아오모리쓰요시 , 박성태
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 25-41 ( 총 17 pages)
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韓国人の大学生が日本語で作文を書く際、どのような困難が生じ、そしてその困難を克服するためにどのような対処をするのだろうか。本研究では、韓国人日本語学習者を対象にして、4コマ漫画を用いて日韓両言語の作文の比較を行った。収集した作文データは、文節にわけてその数を数えた。そして、日本語と韓国語の作文を比較して、その一致率を調べた。続いて、日韓両言語の作文において不一致の文節をその内容によって分類した。 まず、調査の実施順や題材による影響がないことを確認した。次に、韓国人日本語学習者を2つのレベルにわけて、違いを観察した。上級日本語学習者は、日韓両言語において産出量が多かった。また、日本語と韓国語の一致率も上級学習者の方が高い傾向が見られた。一方、不一致の文節では、上級日本語学習者は中級学習者に比べて近似と追加が多いことが明らかになった。

「韓↔日번역」에서의 문말「よ, ね, よね」연구

정하준
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 43-65 ( 총 23 pages)
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小論は日本語の文末表現「よ、ね、よね」が日韓翻訳と韓日翻訳においてどのような韓国語と対応しているかについて調べたものである。その主な結果は次のようである。 ①「よ」の場合、全体的に見て日韓翻訳では「아(야, 어, 여)」類型が一番多く現れており、韓日翻訳では「その他」「아(야, 어, 여)」類型の順に現れている。 ②「ね」の場合、全体的に見て日韓翻訳、韓日翻訳共に「その他」類型が一番多く現れている。日韓翻訳と韓日翻訳を合わせた場合、「その他」「아(야, 어, 여)」類型の順に現れている。 ③「よね」の場合、全体的に見て、日韓翻訳では「아(야, 어, 여)」類型が、韓日翻訳では「지」類型が一番多く現れている。日韓翻訳と韓日翻訳を合わせた場合、「지」類型が一番多く現れる対応語類型である。 ④ 韓国語対応語の数は「よ」が26、「ね」が26、「よね」が12である。 ⑤「よ, ね, よね」で共通に現れる韓国語対応語類型は「아(야, 어, 여)」「지」「ㄴ데」「잖아」「말이다」「다고(라고)」「거든」「네」「더라」「ㄹ걸」「疑問(質問)」「その他」である。
5,700
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2007年改訂教育課程に基づいて作成された中学校の日本語教科書(『中学校生活日本語』)と教育課程基本語彙を対象に音声教育のための語彙データベースを作成した。見出し語の品詞、語種、モーラ数、アクセント、音節構造、リズム型、語頭音の特徴、特殊拍、母音の無声化、新出単元、共通度等をパラメーターとして語彙の検索をパソコン上で行うことができる。また、検索された語彙の音声を視聴できるようになっている。本データベースの日本語教育現場での活用を大いに期待する。
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韓國の漢文讀法は構文理解を志向し、非常に制限された釋讀法を表しており、原漢文をできる限り維持する姿が窺える。これに比べて、日本の訓讀法は漢字漢文に頼りながら可能限り 逐字的に読み下だすのが一般的である。このように兩國の漢文読法の性格が異なる点は記入している表記方法とも関連すると考えられる。 韓國の釋讀法が理想的な漢文讀法の表記形態とはいえない符號のみを使用している点、 文字と符号を日本の訓読法のように混用していない点などを可能にしたのは、構文理解を中心とする釋讀法であったためであると考えられる。韓國の角筆點吐釋讀口訣においては動詞や名詞などの語彙の記入が非常に少ないのに対して、文法形態素を詳しく記入する方針は、文字と符號を混用する複雑な表記體系が切實に必要としなかったかも知れない。このような点を裏付けるのが日本で發見されたヲコト中心の漢籍資料である。 「春秋經伝集解卷第二」と「世說新書卷第六」において表われる訓讀法として、文法形態素を詳しく表記するのに対して、一般的な語彙はほとんど表われない表記形態は構文理解を 中心とする訓讀法である。これは逐字的な訓讀法を志向している日本の一般的な訓點資料の 訓讀法とは非常に異なり、韓國の角筆點吐釋讀口訣において表われる釋讀法との類似性を窺うことができる。このような漢文讀法は日本において一般的に表われる逐字的な訓讀法の前段階で、漢字漢文が中心となる構文理解の釋讀法が韓國と日本において行われたことは韓日漢文釋讀法の發達過程に多くの示唆点を投げかけている。

「-だす」と「-내다」대조분석(対照分析)

一色舞子
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 105-128 ( 총 24 pages)
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日本語の複合動詞「-だす」と韓国語の複合動詞「-내다」は、それぞれ〈移動〉と〈顕在化〉という共通した意味を持ちながら、前者は〈開始〉に、後者は〈完遂〉に意味が転じている。本稿では、両者の意味及び用法を分析しつつ、またそれらがいかにして〈開始〉や〈完遂〉の意味に拡張していったのかを考察した。 その結果、前者には〈移動〉〈顕在化〉〈開始〉の他、潜在的に〈完遂〉の意味も存在するということを述べた。後者に関しては〈移動〉〈顕在化〉〈完遂〉の他、〈分離、除去〉という独自の意味を持つことが明らかとなった。また、本稿の主要な論点である両者の〈開始〉あるいは〈完遂〉への意味拡張に対する考察では、前者の場合は「中から外、前面、表面への移動」から「新たな状態の発生」、そして「新たな状態の開始」という客体の変化にそって意味が転じ、後者の場合は、「中から外、前面、表面への移動」から「新たな状態の発生」、そして「発生させるための動きの完遂」というように、客体の変化と主体の動きにそって意味が転じていることが予想されるとした。

結果構文の有界性に関する一考察 -韓国語·日本語の結果構文を中心に-

김영민
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 129-146 ( 총 18 pages)
5,800
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Goldberg(1995)やWechsler(2005)など、最近の一連の結果構文の研究は、結果構文が有界的であるという前提の下で、その有界性を結果句に現れる形容詞類に求めている。即ち、結果句には最大極点のあるスケールを有する形容詞類のみが容認され、その最大極点からくる有界性が結果構文全体の有界性を確保すると分析している。ところが、韓日両言語には有界的ではない結果句を含む結果構文が観察される。 そこで、本稿では、結果構文の有界性制約という観点から、韓日両言語の結果構文に見られる有界性の特徴を明らかにした上で、そういった特徴が両言語の結果構文の類型的特徴と深く関わっているということを述べた。韓日両言語には最大極点を持たない開いたスケールを有する形容詞類が結果句に許容され、なおかつ主動詞も非限界的な結果構文が容認される。さらに、そのような結果構文は主動詞の表す事象も、結果句のスケール構造も有界的でないにもかかわらず、構文全体としては有界的な事象を表す。これは、両言語の結果構文に見られる有界性の特徴であると言える。また、このような両言語の有界性の特徴は、WeakResultativeとStrong Resultativeの中間的なタイプの結果構文が両言語に容認されるという類型的特徴にもつながっている。つまり、両言語の中間的なタイプの結果構文に見られる特徴は、中間的タイプの結果構文には主に最大極点を持たない開いたスケールを有する形容詞類が容認されるという有界性の特徴と連動しているのである。

ポケモン·キャラクター名のネーミング -ネーミング方式を中心として-

신충균
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 147-166 ( 총 20 pages)
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本稿は、日本のアニメーション․キャラクター名のネーミング(命名)に見られる特徴を、そのネーミング方式から分析した結果をまとめたものである。一般の複合語、もしくはネーミングとは違い、ポケモン․キャラクター名のネーミングは、原語が明確ではないところに難しさがあるものの、その特徴は、次のようにまとめられるかと思われる。 1) 借用型、追加型、省略型、交替型、複雑型と特殊型に分けることができる。 2) 全般的に省略型、借用型がもっとも多く見られるが、2語結合の場合は省略型が、1語のみによる場合は借用型が優勢である。なお、複雑型、特殊型も全般的に分布する。 3) 追加型と交替型は、1語のみによる場合には多く見られるが、2語結合の場合には非生産的である。 4) 最前部省略や交替の例が少ないこと、2語結合省略の際に共通音を媒介としていることなど、自然語の造語․ネーミングの特徴を反映している。 5) 追加型ネーミングの際に、特定の音が重用される傾向がある。特に2語結合による場合には、連濁方式や前部要素後部省略方式などで、語種による偏りが認められる。

『土佐日記』に見る送別の諸相

민병훈
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 167-187 ( 총 21 pages)
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『土佐日記』はいろんな面で象徴性を帯びており、貫之の堪能な文芸的機知には想像を絶するものがある。事物を凝視する透徹した論旨や諧謔はまさに読み手を意識した文士気質を如実に示している。日記は土佐におけるほぼ五年間にわたる国守の生活に終止符を打ち、上洛の旅に出ることを軸にしているが、作品のなかには貫之のさまざまな工夫が溶け込まれている。その内、本稿では送別の諸相に秘められた貫之の作意に焦点をあて、追究した。 およそ20日間にわたる送別の様子から、貫之はたくさんの人から絶対的な信頼を受けていたことを披瀝する。老若貴賤の別なく、皆が加わって離任を惜しみ、酒宴などを催している。すなわち、全ての階層の人が貫之自身を慕っており、誠意のある人たちを讃える形を取っているが、実は国人に寛大な父親のような存在であったことをほのめかす内容を作り出しているのである。 しかも貪欲とは無縁なとても清廉で物慾のない地方官であったことを醸し出している。正月の節会に使う品物を用意もせず船出しており、大津を発って京都に向かう途中に寄っていた浦戸から始まる16個所の宿泊地での宴会はもちろん、出来事さえ一切描いていない。話の種を作るならばもっとも都合のいい時だったはずだが、宴会などで無駄遣いをしていないことを主張しようとする作意のためなのか、そこでの逸話をまったく記していない。もしそうであるならば、結局、読ませる物としての意図から、記録に留めていないということができよう。 『土佐日記』執筆の動機には、少なくとも、いかに自分が清廉で、国守としての職務を全うしたかを強調したい気持ちがあったと思われる。つまり、以上の送別の諸相に潜んでいる貫之の何よりの目的は、地方官としての任務を立派に務めたことを見せびらかして、職を求めようとする政治的な思惑があったのではないだろうか。土佐から帰京した935年から貫之は職が得られず、938年には藤原忠平や実頼、師輔にしきりに官職なきを訴えている。この書もそのような状況のなかで編まれており、創作の一環に官職への願望が色濃く反映されていると思われる。

오에 겐자부로 초기문학의 전후인식과 미국표상

유승창
한국일본어문학회|일본어문학  49권 0호, 2011 pp. 189-210 ( 총 22 pages)
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大江健三郎の初期文学に見えるアメリカのイメージは、暴力的な占領者として描かれており、対米従属的な戦後日本の占領体制下の現実を喚起している。また性的不能状態に陥っている無気力で傍観者的な日本人の内面的な閉鎖状態は〈監禁状態〉に主題化されている。アメリカを占領者と見なすことは、戦後日本を〈敗戦〉の視点から捉えることを意味する。屈辱感と羞恥心をもたらす〈敗戦〉に対する認識は、支配者で暴力的な性的優越者としてのアメリカに表象されているが、これは同時に占領体制という現実を直視することで内面的な閉鎖状態から抜け出す自己認識の自覚と新しい変格の可能性をも意味する。 戦後日本人の自己欺瞞的な現実認識は、恐怖と嫌悪の対象としての黒人と、憧憬の対象としての白人に分絶されているアメリカ認識としても現れている。このような黒․白のモチーフは、近代文明論的な世界観に基づく近代日本の自己規定と、その延長線上にある戦後日本の自己認識の矛盾を露呈する。大江の初期文学に見える占領者としてのアメリカは、白人中心の西欧文明の頂点を象徴している意味で〈外国〉と同義語で表現されており、このことはアメリカによる占領体制が戦後日本だけの問題にとどまるのではなく、近代世界全体を包括する同時代的な時代像であることを示している。 大江は、〈敗戦〉という占領状態と〈終戦〉という自己傍観の間をさまよう戦後日本の二重的な自己認識が〈監禁状態〉という内面的な閉鎖状態をもたらしたと見なしたのである。暴力的な性的支配者として表象されるアメリカは、自己欺瞞に陥っている〈監禁状態〉の日本人に現実を喚起させる強力なモチーフとして機能していると言えよう。
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