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일본어교육검색

Journal of Japanese Language Education Association


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 2005-7016
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 37권 0호 (2006)
6,600
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メディアに現れている日本大衆文化の開放についてたような言說を通して韓國社會のマスメディアとナショナリズムとの相關關係についてその意味を明確にしようとする。1990年代ごろ、すなわち廬大統領の政權になって、本格的に日本大衆文化の開放の問題が前面に打ち出されることと同時に、マスメディアも自分自身の隱していたナショナリズムを韓國社會に出すようになった。すなわち、韓國と日本が日本大衆文化の開放を通して、見え隱れていた文化的な摩擦が起ることによって、韓國のメディアはナショナリズムと手を繫いで、日本大衆文化の開放に關する多樣な言說を創り出したのである。もちろんその內容のほとんどがナショナリズムに滿ちた文章であったことは間違いないだろう。そのようなナショナリズム的な表現は、一つ、文化帝國主義的な傾向を强く表しながら、日本大衆文化から如何に韓國の文化を防衛することができるだろうか、と言う文化防衛論的な側面を强調することであったのである。これが日本大衆文化の開放に對する韓國のメディアの對應のやり方だと言えるだろう。ここで全體的に理解できるのは、國際化の雰圍氣のなかで、韓國の文化がまだ國際化に適應できてない狀況のなかで、ややもすれば日本文化に汚染されたり、支配されることがあって、韓國の文化が强制的に變化を强いられる危機が渡來したのである。それで强大國の文化である日本文化から私たちを防衛するためにいろいろな努力を積み貸さねばならないということである。それを三つに要約したら次のようである。一つ、文化が人間のアイデンティティであるならば、日本大衆文化の開放は單に民族の感情とか、自尊心の問題ではなく、生存のレベルから考えなければならないだろう。すなわち、植民地時代には土地だけを奪われたが、今は魂言い換えれば韓國人のアイデンティティさえ奪われることになるのである。人間が自分のアイデンティティを喪失するようになると生きる意味がなくなるだろう。二つ、國際化が强い國力を持った國が同質性を强調し、弱小國は異質性を追求するのが特徵である。弱小國は强い國家の文化や經濟力や政治力あるいはその國の人間が國境を越えて入ってくるとき、そのような動きを文化帝國主義的な侵略だと規定する。從って、日本の大衆文化を開放することは日本の文化帝國主義が世界的に擴張できるように助けることに他ならないと思っている。そして、日本文化は韓國文化とはあまりにも違いすぎることを强調している。また、日本文化が韓國文化より劣等であり、否定的な面を强調する。さらに、歷史的に植民地支配された過去を强調してメディアの消費者である國民に訴えるのである。そして、文化を一つの産業として捉え、日本大衆文化が入ってくると、韓國の文化産業は日本の文化産業に從屬されるというのである。三つ、自分かに對する自信感と主體性を强化することであり、そのことの實現的な形として文化の商品化と傳統文化と民族文化の强化を取り上げているのである。しかし、傳統文化と民族文化を强調することは常にその意識に底には國民國家を構成している國民文化への感情を忘れていないことと同樣であると言わざるを得ないだろう。だからこそ、大衆文化を道具化させて、韓國社會がそれを問題視する否定的な認識が强かったのである。けれども、文化政策の再考と文化創造への積極性は日本大衆文化が入ってきても勝ち取ることができる、という自信感つまり、新しい未來志向的な姿勢を持って、自分自身を變えていくのを强調していると言えるだろう。

한일(韓日) 신여성(新女性)의 연애관(戀愛觀) 연구(硏究)

우정미
한국일본어교육학회|일본어교육  37권 0호, 2006 pp. 261-283 ( 총 23 pages)
6,300
초록보기
「新しい女」にとって自由戀愛は傳統という束縛から自らを解放され、近代的な個人の確立を保障される確實な手段と考えていて、近代的な敎育を受けた人が享有した一種の特權であり象徵であった。本稿では「新しい女」と戀愛の關係を調べてみて、戀愛の形としては自由戀愛、情死、同性愛、驅け落ちに分けて日韓の兩國の戀愛の現狀の差は何かを調べた後、日韓「新しい女」たちの戀愛をミシェ-ル·フ-コの權力理論に基づいて再解釋しようとするものである。自由戀愛は形態上から見れば、韓國では男性たちは早婚の影響で有婦男が多く、女性たちは敎育を受けたインテり階層の未婚が多かった。社會的な因習に縛られて、彼女たちの愛を正當化するため「妾」とか「第二婦人」の位置も拒まなかった。又家父長的な制度下ではずれることができない場合が普通であった。日本では有婦男とか有夫女に拘っていることでもなく、一、二回の離婚をもあまり氣にしなくて、彼女たちの感情に忠實に行動したことを分かった。愛と死を連結した情死は韓國では慣れていない行爲であった。20年代社會的な流行病のようにはやっていたが、日本のように心中から繫がっている長い歷史を持っていなくて、一時的に同情論は起こったが「死」を輕く考えているという面で批判の對象になった。日本では愛しているからではなく、現實を克服できなかった挫折感からでもなく、單純に死の道連れとして對象を探す現象を見せたりもする。近代以前の同性愛は性愛の對象として理解したが近代の同性愛は異性愛へ進んでいく過程として兩國共に理解されている。積極的に勸めることでもないがそうだといって禁止することでもないという。兩國は封建的な遺物として理解することでなく新しい槪念で性慾を排除した精神的な「愛」として理解している。驅け落ちという形は現實的な制約を克服できなかった時選んだ方法の一つであった。もちろん情死も自殺もおなじであるが驅け落ちにあっては徹底的に二人の感情に基づかないとできないことであった。愛なく單に死の道連れとしての情死と、愛している人を殘して一人で自殺することとは差がある。日本では驅け落ちはいろんな形があるが貴族の女性とその家に雇われている男性の間で起ったのは目に見える限界の中で人間らしい生活の要求の表わしであった。兩國の女性たちにとって自由戀愛だの情死だの同性愛だの驅け落ちだのどれであってもそれは女性の自分自身の意思の表現であることは明らかであった。フ-コの理論で「新しい女」たちにおいて戀愛ということを再解釋してみれば、男性中心の舊秩序に女性たちの編入を意味することである。社會的な制度が一つの權力として女性に行使して、一つ一つの仕組みが女性を一人の人間というより服從的で奴隷的で犧牲的な生き方を强要した。自分を表わして、自分の話をすることで男性たちが持っている社會的な權利を共に享有する道に入っていったことを示唆している。
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