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일본어교육검색

Journal of Japanese Language Education Association


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 2005-7016
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 56권 0호 (2011)

만엽집(萬葉集) 2858번가(番歌)의 여(與)의 훈독(訓讀)

안희정 ( Hee Jung Ahn )
한국일본어교육학회|일본어교육  56권 0호, 2011 pp. 205-219 ( 총 15 pages)
5,500
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本稿は、異讀のある卷12-2858の第5句の「與」の訓讀に關して旣存の注釋書における訓讀及び注釋を檢討し、より適切な訓讀について考察したものである。また「與」を副詞と見て「トモニ」と訓讀している問題に對し、中國語との比較檢討を行った。その結果をまとめると、次のようになる。一番目、万葉集の中で「與」は2858番以外で「サベ」の表記として用いられた例がない。万葉集における「サへ」の表記としては、音假名28回, 訓讀11回, そして訓假名2回の計41回が見られるが、「與」が使われた例はない。二番目、「コソ」の表記として「與」が用いられた例が15回見られるが、すべて「動詞(連用形)+與」の形式で日本語語順となっているのが特徵である。從って漢文語順の「與+動詞(經)」の「與」を「コソ」と訓讀することには同意しがたい。三番目、「與」の訓讀としては「ト·コス·アタフ」のみが存在し、訓讀字の表記47回中、漢文語順は4回しかなく、43回が日本語語順となっている。特に卷19-4238の歌謠の「誰與」は漢文語順から離れ、すでに日本語の語順が定着しつつある事が分かる。四番目、第2句の「不寐」を除いて第1句から第4句まで完全に日本語の語順に從い表記されていることを考慮すると、第5句だけを漢文語順として讀むことは異例であり、その根據を提示することも困難であると考えられる。五番目、「與」が「トモニ」と訓讀され副詞として扱われていることに對し、中國資料を檢討してみた結果、「與」には「トモニ(共に·一緖に)」の意は全く見られなかった。從って「與」についての辭典や注釋書で見られる「トモニ」の訓讀は、副詞ではなく介詞(前置詞)として用いられていると考えた方がよいと言えよう。六番目、万葉集以外の上代資料「古事記」「日本書紀」「金石文」における「與」を檢討してみたところ、「與」が單獨で副詞として用いられた例は存在しなかった。從って、万葉集で「與」を「トモニ」と讀み副詞として取り扱うことは適切ではないと言えよう。以上のような根據により2858番の第5句の「與」は「卜」と訓讀する方が適切であり、また「與」を副詞の「トモニ」と訓讀することは中國語の用法には見られないので、これは日本式訓讀もしくは日本語的な用法であると考えられる。

朝鮮資料におけるサ行,タ行のウ列音について

조래철 ( Rae Chol Cho )
한국일본어교육학회|일본어교육  56권 0호, 2011 pp. 221-232 ( 총 12 pages)
5,200
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本稿では、朝鮮資料における日本語學習書、特に「捷解新語」の現存する三種の刊本及び「朝鮮板伊路波』、「倭語類解」におけるサ行·タ行のウ列音「ス」「ツ」を中心に、ハングル音注に見られる規範意識の實態を嚴密に調査·考察をしてみた。その結果、朝鮮資料におけるサ行·タ行のウ列音「ス」「ツ」だけが、「朝鮮板伊路波」および「捷解新語」原刊本では、円唇母音「T(u)」を用いて轉寫されているのに對して、「捷解新語」の改訂版である改修本、重刊本と「倭語類解」などでは、非円唇母音「―(ш)」として、ほとんど統―した表記が用いられていることが指摘できる。また、和語及び舌內入聲音「ツ」表記のハングル音注について、まず、和語「ツ」は「捷解新語」原刊本では「주(cu)」が用いられ、改修本以降、「倭語類解」においては「즈(cш)」のように、ほとんどが單書(平音)が用いられているが、語によって「쭈(c`u)」のように、倂書(濃音)が用いられていることが明らかである。和語「ツ」に倂書表記「쭈(c`u)」「쯔(c`ш)が用いられている例は、和語全體の「ツ」表記の數からみると、ごく少數で、「捷解新語」「倭語類解」におけるほとんどの用例は、時候や序數詞などの語に限られていることが分かる。一方、舌內入聲音「ツ」におけるハングル音注は、基本的には竝書(濃音)「쭈,쯔」(c`u,c`ш)が用いられ、和語において單書(平音)「주,즈」(cu,cш)が用いられていることとは對照的である。舌內入聲音においては口語體(第一~第九)では「쭈,쯔」(c`u,c`ш)、文語體(第十)では「-ㄷ(t)」「-ㄷ즈(t-cш)」「쭈,쯔」(c`u,c`ш)のように複雜に轉寫されるが、場合によって、舌內入聲音でも和語のように單書「주,즈」(cu,cш)として用いられる例がみられる。以上のように、朝鮮資料におけるサ行·タ行のウ列音と和語及び舌內入聲音「ツ」表記のハングル音注にみられる變化は、主に「捷解新語」の原刊本から改修本への改訂の過程で行われており、朝鮮資料におけるサ行·タ行のウ列音、和語及び舌內入聲音は、場合によっては過度の規範性·統一性に基づく音注を用いたこと、また、一方で、時にその規範性·統一性に破綻を生じているものと解釋できる。

助詞「やら」の用法について -東海道中膝栗毛を中心に-

하주령 ( Ju Young Ha )
한국일본어교육학회|일본어교육  56권 0호, 2011 pp. 233-244 ( 총 12 pages)
5,200
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本稿は江戶時代中期の口語性のつよい資料である「東海道中膝栗毛」の中から「やら」の用法を調ベてみた。「やら」は「やらん」を經て「やろう」から轉じたもので、室町時代末期に成立したものである。これは、江戶時代初期まで主に副助詞的用法として使われるが、揷入句の中では終助詞的用法の用例も見られる。なお、竝立助詞的用法も見られるが、過渡期的な形の用例が多く見られるので、竝立助詞になったとは言えないだろう。以上の「やら」を「東海道中膝栗毛」の中で調べて結果、副助詞的用法の「やら」の場合、主に會話文の中で、疑問詞と共起して使われる用例が多くなり、「なに」「どう」をうけて一つのまとまりになって副詞化することがわかった。その一方、竝立助詞的用法も依然として使われる。しかし、この時代にはすでに使われなくなった終助詞的用法の例も見られるが、これは「東海道中膝栗毛」には、慣用句のような例であるため、「やら」の終助詞的用法とは言えないだろう。なお、格助詞「と」をうけた「とやら」の用例は少なくなり、副助詞的用法として使われる場合、江戶時代初期の資料および同時代の資料と違って疑問詞をうけない傾向があることがわかった。さらに疑問詞を伴わない「とやら」の場合、江戶時代初期の資料にくらべて「例示」「ぼやかす」「不定」「婉曲」に用法が多樣になることが明らかになった。最後に、「やら」の古形である「にやあらん」と「やらん」の用例も見られるが、これは狂言が多く取り입まれているこの資料の性質によるものであると考えられる。

일본 근대소설과 이동, 교류의 전략적 글쓰기 -미야모토 유리코 문학의 전면적 재평가-

김주영 ( Joo Young Kim )
한국일본어교육학회|일본어교육  56권 0호, 2011 pp. 245-257 ( 총 13 pages)
5,300
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漱右や鷗外のヨ―ロッパ體驗は、日本の近代文學を語る重要なキ―ワ―ドの一つであろう。なぜかと言えば、近代文學史そのものが西洋からの移植という否定せざる負の意識を孕んでいるからである。それはある面においては、オリエンタリズムに繫がる一方、負の意識の作動で西洋を相對化できるような文學者を求める。その對象が漱石や鷗外ではなかっただろうか。ところが二人の神話は西洋に移動、交流する男性的世界觀に支えられている、というのが本論の出發点である。もともと移動、交流による非西洋の發見ということを、近代の始まりだとすると、女性の出る幕はなかった。しかし、漱石や鷗外が經驗したヨ―ロッパ帝國、すなわち英國帝國、獨逸帝國とちなんで宮本百合子のアメリカ「帝國」やソビエト「帝國」、ヨ―ロッパ帝國の滯在を重ね讀むとどうであろうか。漱石の帝國として成長していくべき「日本」への强い思いとは違って、百合子が捉える西洋には「國家/帝國」意踐が見られない。百合子文學が個人の自由への熟い思いから出發したからであろう。漱石と同じ英國を見回る百合子の語り手は、先進國としての羨望はなく、その矛盾への批判が現れている。共産主義の帝國化を圖るとソビエトに對する無批判的な肯定に問題は殘るにせよ、女性の視点で讀まれた西洋言說は日本の近代の別な斷面として考えるべきである。

『청령일기(청령日記)』 연구 -「戀(사랑)」-

안정숙
한국일본어교육학회|일본어교육  56권 0호, 2011 pp. 269-280 ( 총 12 pages)
5,200
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「청령日記」は、作者道綱母が藤原兼家との二一年間にわたる結婚生活を描いた日記文學作品である。一夫多妻制の許された平安朝の男性中心的な社會において、夫に對し「三十日三十夜はわがもとに」を訴える道綱母の戀はどんなものであったのだろうか。本稿は、同時代の他の作品、「枕草子」「紫式部日記」「和泉式部日記」での「戀」の表現を調べた後、道綱母にとって最大の關心事であり、彼女が强烈に愛した夫兼家との關係を「戀」の表現を中心に考察してみたい。「청령日記」には「戀」の用例は一六例見られるが、そのうち、作者が兼家に對して「戀」の表現をするのは一例に過ぎない。彼女は、夫を亡くした人や配流された人の妻など、他人や代作で戀の表現を用いることができても、兼家に對して、戀情を率直に表現し訴えることはできなかった。作中で道綱母は相手を戀しく思いながらも、いつも相手を拒むことが多く、自分自身の心のうちを率直に訴えることをしなかった。「청령日記」の中で作者が兼家に對して「戀」の表現をしなかったり、わずか一例しか見られないことは何を意味するものだろうか。それは、作者が冒頭で「天下の人の、品高きやと、問はむためしにも」と記している結婚生活の眞相として、「청령日記」における戀の表現を通して考えられるのは、彼女の實人生は同じ時代の女性に比べて嘆いているほど不幸なものではなかったのではないだろうか。彼女が訴えているほど兼家との結婚生活が荒廢したものではなかったかもしれないし、もしも、作者が彼の不訪に對する怒りや鬱憤を率直に「戀」を表現し訴えられたら、「청령日記」という作品は生れなかったろうが、二人の關係はより円滿な夫婦關係を保つことができたのではないだろうか。もう一つ、道綱母が兼家を思いつつも、兼家に對し「戀」の表現をしなかったのは、それは兼家への思いが熱いほど、自分自身への愛、すなわち自意識が强すぎたからであろう。それが二人の戀のカタチなのである。
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