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일본어교육검색

Journal of Japanese Language Education Association


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 2005-7016
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 63권 0호 (2013)
5,300
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芥川龍之介の『地獄變』(1918)と『奉敎人の死』(1918)は芸術的に彼の絶好調期の作品であり、彼の技巧が巧妙に發揮されている. 特に『地獄變』と『奉敎人の死』の語り手は作品のなかで一人の登場人物として見られる程、その役割が幅廣い. 『地獄變』の語り手は逆說的表現を用いて, 權力者の大殿を「權者の再來」から「獸」へ墜落指せ、良秀は「獸」から「佛」へ昇格させている. 『宇治拾遺物語』の說話から良秀を用い, 『地獄變』では「佛」の良秀を創作している. すなわち,神格化された良秀による「芸術市場主義」の勝利であったと思う. 一方,『奉敎人の死』の第二章における語り手は,架空の書物である『れげんだ·おうれあ』を持っている. この書物は「福音傳導」を目的とするものであるが、その內容が作品の第一章である. 一見、語り手はそれぞれ違うように見えるが第二章の語り手である「予」は第一章の語りにも大きくかかわっている. 第一章の登場人物である「ろおれんぞ」と「しめおん」の關係が「福音傳導」と掛け離れているため、そこに「予」の동きがあったと思う. 「予」は「多少の文飾」を加えただけであると語っているが、すでに神父と信徒たちによって殉敎者として認められた聖人「ろおれんぞ」という神話から小說『奉敎人の死』に變えたのは、語り手の「予」であるに違いない. すなわち、「宗敎的感動」より「芸術的感動」が優位にいると考えられることはこの理由に起因する.

일본 근대의 니노미야 손토쿠(二宮尊德) 모범인물화와 보덕사(報德社)

김우봉
한국일본어교육학회|일본어교육  63권 0호, 2013 pp. 173-189 ( 총 17 pages)
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本稿では報德社の成立と發展過程、そして報德社の活動や事業を通じて、報德社が日本近代社會の底邊で二宮尊德の模範人物化にどのような役割を果たしたかを檢討してみた. 江戶時代の末期、二宮尊德の指導により相互扶助組合の形で成立された報德社は、明治時代に政府の承認を受けてさらに隆盛した. これは二宮尊德の門人(富田高慶、福住正兄など)が、政府の高官(品川彌二郞、平田東助など)との政治的交涉を通じて得た成果であった. この過程で二宮尊德は模範人物として浮上するようになったと言えよう. 明治時代の地方改良運動の時は大日本報德社を中心に國民敎化の中心的役割を果たし、昭和時代には大大的な國民敎化の機關として內務省と文部省まで指揮し、兒童、靑年、婦人、高齡者など、老若男女を問わず樣樣な行事を造成して國民敎化の事業を行なった. 特に小學校を中心とした學校事業に集中して敎職員を報德の專門家として養成した一方、小學校に學校報德社、學級別報德社などを設立して、兒童を將來の報德社員に養成して行ったことが分かった. この時の國民敎化の內容は、二宮尊德の報德思想に敎育勅語と國體思想を融合したもので、個人の權利と幸福ではなく、公益と國家のための犧牲を要求している. 結論として江戶時代に二宮尊德により相互扶助組合の形で發足した報德社が、近代日本の國民敎化の機關にまでなったのは、明治政府が報德活動を公認し、二宮尊德を敎育勅語の模範人物として敎育政策的に適用したこと、二宮尊德の思想を國民敎化の思想的基盤としたこと、報德社の經濟力と各地域に分社と會員をおく全國的組織のネットワ-クを形成していたこと、小學校に報德社を設立することで報德思想の專門家及び將來の報德社員を養成し、人的資源が確保できたことなどがあったためであろうと思われる. この硏究結果は、敗戰後の報德社活動がどのように行われてきたかを比較硏究するのに役立つであろう.
5,700
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本硏究は鳥取縣と島根縣を中心に壬亂の傳承と捕虜に對して綜合的に考察したものである. まず民間傳承の場合は出征する武士階級と動員される一般庶民の立場があった. 前者は勝戰祈願と戰爭の武勇談と敗北談が主流になっている. それに比べ後者は戰爭による被害談が殆んどである. 庶民にとっては朝鮮を鬼の國として描寫されるほど朝鮮は未知の地であり、そこに出征する 理由も分かるはずがない. それで役人たちの參戰督勵も信じなかったのである. 一方、壬亂捕虜の場合、島根縣は長浜と津和野の例で見られるように、主に燒き物を生産する 陶工たちが多く、それに比べて鳥取では商人たちが多かった. 前者のように尖端技術を持った人人は最初から特別待遇を受けた可能性が多いが、そうではない後者の場合は初めは奴僕であった. そのあと身分が解放され少しずつ個人商賣をやり出して資本を蓄え、店を開き次第に發展し巨商になる事例も出てきた. この場合にも自分を朝鮮人の末裔という事實を明らかにすることと隱すことがあった. 恐らくそれは地域社會の情緖とも全く關係がないとは言えない. 壬亂が日本社會に及ぼした影響はとても大きいことは誰もが認めている. ところが壬亂の傳承と捕虜の話に關する硏究は未だに十分だと言えない. これに對する硏究が今後も續けて行われる必要があると思われる.

德川氏及び豊臣政權の「摠無事」と關東諸領主間の 交涉に關する考察

田中敏昭
한국일본어교육학회|일본어교육  63권 0호, 2013 pp. 209-232 ( 총 24 pages)
6,400
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豊臣政權の日本統一過程、特に關東·奧羽を支配下におさめていく過程において發令された豊臣政權の「關東·奧兩國摠無事」令は、信長在世時の秩序を前提として當時の東國という地域的特性を背景に登場した政策であった. この「關東·奧兩國摠無事」令は、一段階目が關東における織田秩序崩壞後の「東國御一統」回歸のための家康單獨による「摠無事」、二段階目が德川·北條同盟により家康單獨による「摠無事」が困難になった狀況下で秀吉が關與した家康による「摠無事」、三段階目が小牧·長久手以降、家康に執行を委任した豊臣政權による「關東·奧兩國摠無事」、という三つの過程を經て成立したことを明らかにした. またこの豊臣政權の「關東·奧兩國摠無事」令は、家康に委任されたのであるが、その理由は、第一に家康が織田政權期より「大儀ハ家康卿へ相議可有」·「御威光」といわれ、東國に多大な影響力を持っていたこと、第二に織田秩序崩壞時からすでに東國の「摠無事」を推進していたこと、第三に家康が豊臣政權に編入される以前から、すでに秀吉が家康の推進する「摠無事」に關與していたことによるものであったことも明らかにした.
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