글로버메뉴 바로가기 본문 바로가기 하단메뉴 바로가기

논문검색은 역시 페이퍼서치

일본어교육검색

Journal of Japanese Language Education Association


  • - 주제 : 어문학분야 > 일어일문학
  • - 성격 : 학술지
  • - 간기: 계간
  • - 국내 등재 : KCI 등재
  • - 해외 등재 : -
  • - ISSN : 2005-7016
  • - 간행물명 변경 사항 :
논문제목
수록 범위 : 68권 0호 (2014)
5,400
초록보기
1748年に演劇『假名手本忠臣藏』が初めて上演されてから、これをパロディして〈忠臣藏もの〉といわれる一つの膨大な話型が、日本大衆文芸の樣□なジャンルに渡って形成された。本稿では日本演劇史上、今日まで最多上演記錄を保持している「忠臣藏」の近現代における受容樣相を、映畵、TVドラマ、古典芸能に分けて先ず以て整理分析することで、異なるジャンルの間で影響し合う中で、新しいジャンルまで開拓していくという、柔軟なる日本大衆文芸のジャンルの越境を垣間見た。それから、そもそもそのような〈忠臣藏もの〉の始原であり、草創期のジャンルである「黑本」を軸として創作法の一部を論じた。卽ち、鳥居淸滿が1765年に繪を描き文章を書いて刊行した黑本『忠臣假名書初』の前半部を中心に、その趣向を綿密に分析した次第である。その結果、當該黑本の前半部では人物たちの立場と境遇、事件が大體原作に相應するよう設定されていることがわかった。立場や境遇が逆轉されたり、原作の違う人の役に代わったりすることはなかった。岩永三郞も黑本では省略されてしまう惡役を一人で受け持っているのであって、他の人の役割に代わることで狀況を逆轉させたりはしない。このように本稿では原作に大體添うように創作されている割合單純な前半部を中心に比較分析したが、當該黑本の後半部は別稿に讓り、세落本、신本という他のジャンルにおける忠臣藏創作法については課題として殘っている。
5,500
초록보기
『청령日記』は道綱母が描いた兼價との21年間にわたる結婚生活の記錄である。そこには作者の不倖な結婚生活の眞相以外に、二人の間で生まれた一人息子道綱の誕生から二十歲まで成長していく姿が描かれている。果たして, 道綱母は『청령日記』の中で一人息子道綱をどのように描いているのか。本稿は、『청령日記』に描かれている道綱について、特に、「故事談」や「續故事談」などに見られる道綱像-上層貴族というよりも人間としての神經が一本ゆるんでいるところ-を中卷において最も多く使われている「幼き人」の表現を通じて探ってみたものである。『청령日記』で道綱に對する特徵的呼稱といえる「幼き人」の表現は道綱2才の時から17才の靑年期まで15例が使われているが、兼價による一例を除けばすべて作者道綱母に呼ばれたものである。そして、「幼き人」の表現の用いられた場麵には、父母の爭いに卷き入まれ、二人の間に立って苦慮したり、單なる走り使いをさせられたりする道綱の姿が描かれており、ほとんど兼價がいる。內容的には、作者が兼價との關係がうまく行かず不安になったとき、「幼き人」を呼んで死にたい心情を語ったり、愚癡を漏らしたり、척價の意思を示したりする場合が多い。また、「幼き人」の表現が使われている場麵を通じて、道綱はよく父兼價の邸宅を척入りしていたことがわかり、父親との關係は円滿に維持していたかと思われる。特に、「幼き人」と呼ばれている場麵で註目すべきことは泣いている道綱の姿である。父母の부婦喧화の後、もう來るまいといって歸ってしまう兼價の一言に泣いたり、鳴瀧の般若時で母を說得できなくて父に叱られた後、「泣きにも泣く」道綱。道綱は幼小期より父母の愛憎の渦中で「おどろおどろしく」「さくりもよよに」「ししと」泣いている。そして、その「幼き人」が泣く場麵に母思いの道綱の姿が描かれているのも印象的である。いつの時代でも母親にとって子の存在は年が幾つになっても「幼き人」にすぎない。しかし、そのような母として子に對する憐憫の情を勘案しても道綱が元服した後も母親に「幼き人」と呼ばれているのは珍しく、そのような呼稱からも道綱像が想像できる。『청령日記』に描かれている道綱は父兼價の政治價としての手腕や豪放な性格も窺われないし、道綱母の優れた文學的資質も見られない「幼き人」でけっして賢くは描かれていないが、母のために泣ける母思いのいい子であった。

宮城縣の俳額に關する一攷察 -龜岡八幡宮と大崎八幡宮を中心に-

本鄕民男 , 권해주
한국일본어교육학회|일본어교육  68권 0호, 2014 pp. 189-205 ( 총 17 pages)
5,700
초록보기
宮城縣には36枚の俳額があった。その中で2枚は現存していない。宮城縣で現存する最古の俳額は、大河原町の大高山神社の1824年の俳額であるが、2次大戰の空襲で燒失した仙대市の龜岡八幡宮の俳額は1687年でもっと古いものである。三韆風が龜岡八幡宮の二十八景を選定して、それを普及するための俳額である。二十八景の中に「奧細道」があるなど、芭蕉の『おくのほそ道』に何等かの影響を與えた。同じく現存していない仙대市の大崎八幡宮の1718年の俳額は、今の福島縣いわき市にあった平內등藩に關わる俳額である。6代藩主となった沽城の父の露沽が中心となり、露沽の弟子や舊知の俳人が加わった歌仙が書かれている。沽德、沽洲など當時の一流の俳人が加わっている。沽城が藩主となった年に、就任祝いとして奉納された。これらの現存しない俳額には詳細な記錄があるが、現存する俳額は解讀もなされていないので、解讀が待たれている。

일본의 역사교과서 왜곡문제와 대책

김인현
한국일본어교육학회|일본어교육  68권 0호, 2014 pp. 207-230 ( 총 24 pages)
6,400
초록보기
最近、韓日兩國は日本軍の慰安婦問題と日本歷史敎科書の歪曲問題などの過去事の問題について謝過を 要求する韓國と 謝過をしない日本とUN本部で韓日兩國が激論している中で、日本政府が敎科書を歪曲して韓國は歪曲の問題点と極右勢力の動きを强く批判しながら國際秩序に正面で挑戰する安倍政權に慰安婦問題の謝過と敎科書の改定などを要求している。米議會も日本が慰安婦問題で强硬姿勢を續ければ日米關係にも惡影響を與えかねないと警告した。韓國政府は日本の指導層の歷史を歪曲した妄言には斷固對應している。本 論文では日本の小中高校の社會敎科書と歷史敎科書の歪曲問題を分析し、考察することに意義がある。韓中日 3國は慰安婦問題と日本歷史敎科書の歪曲問題などを共同で硏究する必要がある。
5,700
초록보기
<數え歌>は日本で昔から傳來された童歌であって、明治時代に唱歌が學校で正式的に音樂科目として採擇される前には地域によって樣□多樣な歌詞にて歌われたのであった。本硏究は、敗戰前日本の小學校で使用された「唱歌」科目の敎科書に載っているわらべ歌の中で、「數え歌」の歌詞を中心に、日本帝國主義の本土と植民地、卽ち、內地(日本)·朝鮮·台灣によって、どのように變容して編集し、その狙いは何であったかを分析したものである。<數え歌>は昔から傳えられた作者未詳の日本のわらべ歌であるが、<唱歌>が敎科として指定されなかった時期には、地域によってさまざまな歌詞で子供たちによく歌われた。そのため、主にお正月や日本の民俗の遊び歌が多く歌われた。1890年<敎育勅語>の發布以後の<數え歌>は德性涵養に中點を置いた歌詞になりつつあった。1911年唱歌が初めて文部省の國定敎科目として指定されたから敗戰前までの<數え歌>は一度も欠かさず「唱歌」の敎科書に載せられた。特に戰時期に入ると、<數え歌>は皇國人民練成のための手段とされ、道具として變容つつあったのだ。同じ日帝の植民地支配下にあった朝鮮と台灣の<數え歌>と日本本土の<數え歌>とを比べると、朝鮮は日本と相當似ているが、台灣の<數え歌>は忠義よりは個人の德目の方に傾斜されがちである。從って朝鮮では<唱歌>が日本帝國主義の同化イデオロギの裝置として變容されたことがわかるようになった。要するに、日帝の皇國臣民化のための敎育が日本のわらべ歌である<數え歌>を通じても施されたということを本硏究で推量してみることができた。
<< 1 2